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独自のニュータイプ概念 それは高松信司から富野由悠季への挑戦状?『機動新世紀ガンダムX』



『機動新世紀ガンダムX』のニュータイプ論は独特です。
独特のニュータイプ論には、高松信司監督の富野由悠季監督への批判があるのかなとわたしなどは邪推しています。


『ガンダムX』のアフターウォーにおいては、フラッシュシステムを稼働させることができる者のみがニュータイプ能力者と認められます。

フラッシュシステムは、宇宙世紀におけるサイコミュに相当します。
ビットやビットモビルスーツなどを制御できるシステム。

このビットやビットモビルスーツが戦争にはたいへん有用でした。

ビットモビルスーツにいたっては、ガンダムに乗るニュータイプ能力者が12機のビットモビルスーツ(Gビット)を操縦でき、12機もすべて自分が乗っているように自在に操縦することができるという代物です。
同時に、13機をなんの問題もなくあやつれるのです。
Gビットの性能は基本的に本体のガンダムと遜色なし。
つまりは、敵にしてみれば、ガンダムクラス13機で編成されたニュータイプ部隊と戦うも同然。
戦況を一変させる能力。
これは、すさまじい脅威です。


そのあまりの人間離れした強さゆえ、旧い人類を超えた「新しい人類」に人の目には映ったのでしょうか。
もともと、フラッシュシステムはビットやビットモビルスーツなどを稼働させる科学技術でしかありませんでした。
しかし、「フラッシュシステムをコントロールできる能力を持つ者のみがニュータイプ」という転倒した思想が生まれてしまいます。

「戦争の道具」として有能な者がニュータイプという思想です。


【人類の新たなる革新】ニュータイプ。
その壮大なニュータイプであるか否かの判断基準が、たんなる科学技術のフラッシュシステムを駆使できるかどうかにかかってしまったのです。

狭すぎる解釈です。
フラッシュシステムに対応できる人間だけが、ニュータイプであるという狭さ。

ニュータイプは異能力を持っている者のみがなれる。
ただし、異能力があればいいというわけではない。
異能者でもフラッシュシステムを起動させることができなければ、ニュータイプではないのです。

たとえば、フロスト兄弟は、兄弟間(のみ)のテレパシーで意思疎通能力や視覚等の感覚を共有できるツインズシンクロニシティの異能者で、2人の連携による戦闘力は絶大なものがありましたが、ビットモビルスーツをあやつるフラッシュシステムに対応できなかったという理由のみでニュータイプとは認められず、ニュータイプのできそこないというような(「カテゴリーF」Fはフェイク=にせもの)屈辱的な扱いを受けています。

異能者でなければ、なおさらニュータイプとは認定されません。


この考えを、月の巨大ドーム状施設D.O.M.E(ドーム)のシステムに(肉体をうしない)意識を組み込まれた人類初のニュータイプ(ファーストニュータイプ)は否定します。
「ニュータイプは幻想に過ぎない」と。

ニュータイプは人類の革新でもなければ未来をつくるものでもない。
ニュータイプという思想に縛られているかぎり未来はないとすら語ります。

あえてニュータイプを定義すれば「未来に希望を持って行動していく人間」みながニュータイプだといいます。
能力の有無は関係ない。
優劣も関係ない。
それが、あえて定義すればのニュータイプ。
しかし、それはあくまで「あえて定義すれば」であり、そもそも「ニュータイプは幻」なのです。
「特別な力などなくても、強い心を持って行動することが未来を切り開く力を生む」というのです。


幻想であるニュータイプ思想は、未来を切り開くには障害になるというのです。


じつは、これは富野由悠季監督へ苦言を呈しているように思えてしかたないのです。
ニュータイプにこだわる富野監督に。
(そうであったなら面白いという願望も、そう思わせる一つの要因でしょう)

『機動新世紀ガンダムX』は、1996年作品です。
それまでにガンダムのアニメ作品は、

『機動戦士ガンダム』(1979)
『機動戦士Zガンダム』(1985)
『機動戦士ガンダムZZ』(1986)
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1987)
『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(1989)
『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』(1991)
『機動戦士ガンダム F91』(1991)
『機動戦士Vガンダム』(1993)
『機動武闘伝Gガンダム』(1994)
『新機動戦記ガンダムW』(1995)

10作品が制作されました(映画オリジナル『逆襲のシャア』以外のオリジナルでない映画作品は省きました)。

『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』は同じ1996年開始ですが、7月からの発売です。
かたや『X』は、4月5日に放送開始で、『08』に先行しています。


このなかで、ニュータイプが主要なキャラとして登場するのは、すべて富野作品。
富野作品は、すべてニュータイプが主人公。

一方、富野作品以外では、主要なキャラにニュータイプは一人もいません。
『ポケットの中の戦争』は、ニュータイプ用ガンダムは出てきてもニュータイプは一人も出てこない。
『0083』は、ハマーンがゲストで1分ほど出てくるくらい。
『G』『W』の世界にいたってはニュータイプ概念が存在するかどうかも不明(漫画版『W』にはニュータイプ概念が存在。ゼクス・マーキスがニュータイプ)。

1996年時点では、アニメ作品におけるニュータイプ概念は富野監督専用といっていいでしょう。
そのニュータイプ思想に縛られているかぎり未来を切り開くことはできないと、ファーストニュータイプの口を通して高松監督は述べています。


高松監督は、『Z』『ZZ』『逆シャア』では富野監督のもと、設定や演出・演出補などで制作にかかわっています。
『Z』31話「ハーフムーン・ラブ」では初演出を経験しました(知る人ぞ知る、サラカミーユがデート?してアイスクリームを食べる回。けっこう不思議な演出が多いことでもちょっと有名→よろしければ、こちらを『サラ&カミーユ 若さゆえの過ちか? アイスクリームのコーンを捨てる!!』)。
富野ガンダムの『ポケットの中の戦争』では、演出(1、3、5話)と絵コンテ(3話)で作品にかかわっています。
『W』にいたっては、池田成監督が凝りすぎたすえに行き詰まり制作スケジュールが破綻し降板、29話?から後半半分を高松信司監督が代行しました(ただし、クレジットなし)。

歴戦の勇士といったところでしょうか。
ガンダムシリーズの申し子のような方なのです、高松監督は。
富野監督とも関係が深いその高松信司監督が、富野監督のこだわるニュータイプ思想を否定しているのです。


思えば奇妙なのです。
わたしの記憶違いでしょうか?
(記憶違いであったならすみません)
富野監督は『Z』以来、「戦争の道具」としてのニュータイプ能力を「バカみたい」と否定していた気がするのですが……。
それなのに、いったんガンダムの世界から離れたあとの『F91』『V』でも、やはり主人公はニュータイプ。
そして、ニュータイプたちがひたすら戦う。

富野由悠季監督は、ニュータイプ思想に呪縛されているのでしょうか?
魅力的な悪女のように、ダメと知りつつ惹かれていってしまうのでしょうか?
それとも、ニュータイプについてのなんらかの心境の変化があったのだろうか……。