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アンマン(エゥーゴの秘密の本拠地)……地球から遠い月の裏側の秘密基地(『機動戦士Zガンダム』)


月の裏にうごめくもの

月の裏側は、どうあっても地球からは目視できません。
月は絶えず一方向だけを……表側を地球に向けています。
月の裏側は、穏やかな月の表側のその向こうにあって、我々からはヴェールにつつまれています。

ですから、秘密の策動に月の裏側はうってつけです。
『機動戦士Zガンダム』で、反地球連邦組織エゥーゴが連邦……とくにティターンズの目を盗んで「影の本拠地」を築いていたのはその典型例の一つではないでしょうか。




月面都市アンマン

アンマンの魅力を伝える一文を紹介しましょう。
『機動戦士Zガンダム大事典』(ラポート 1986)から抜粋いたします。

「アンマン(8話~)
グラナダの近くにある月面都市の一つ。
アナハイム・エレクトロニクスの企業都市とも言えるものである。
資源採掘の為に縦横に鉱道(坑道)が走っており、深さとしては原水爆の直撃を受けても大丈夫であろうものまであった。
その為、機密保持、工業施設等の条件が揃いやすくエゥーゴの艦艇、M・S(MS)等はほとんど、がここで製造されていた。
影の本拠地である」




アンマン……エゥーゴの月の裏側の影の本拠地

ここには書かれていませんが、地球連邦の本拠地である地球からは見えないというのも機密保持などのためには好都合だったでしょう。
さらに、深い深い坑道が縦横に走っているというのは「秘密基地」にとって申し分ない条件でありましたでしょう。
このような地球からは遠く、かつ見えにくい辺地においてエゥーゴはティターンズ打倒のための策動をおこなっていたのです。
まさに「影の本拠地」でした。




月の裏側の戦い

そのため、アンマンとその周辺ではさまざまな戦いが起きました。

サイド1の30バンチで散っていったライラ・ミラ・ライラの仇討ちのため、ジェリドはライラの愛機と同じガリバルディβでカミーユのMk-IIに戦いを挑みました(8話)。

クワトロ(シャア)とカミーユの留守中に、カクリコン率いるハイザック部隊がアンマンの港を急襲、リックディアスに搭乗するエマは苦戦しますが、エマの危難を察知したカミーユが駆けつけてカクリコン隊を撃退。
この戦いの直前、愚痴をこぼしながらもチキンバーガーを豪快に食べていたことが一部のファンのあいだでちょっと有名なキッチマンがアンマン近傍のこの戦いで散っていきました(9話)。

マラサイに乗ったジェリドとカクリコンは、2機を1機に見せかける戦法でカミーユを苦しめるも、クワトロやウォンの援護によって二人を撃退しました(10話)。




月の裏側の秘密基地

秘密基地という語感には、あやしい魅力があります。
隠蔽(いんぺい)された神秘的な隠れ家といったような。

秘密基地は見えにくいところに、これは鉄則です。
子供たちの秘密基地が大人に発見されにくい場所にきずかれるのは、わたしの幼少の経験からも、浦沢直樹の漫画『20世紀少年』からも容易に想像できます。

エゥーゴにとってその最大のものがおそらくはアンマン。
地球から遠く、地球から見えず、深い坑道が入り組んで迷路状になっているアンマンとその近辺は秘密基地におあつらえ向きでした。
人家から遠く(「地球から遠く」に相当)、丈の高い草や木などで外界からさえぎられていてその存在が気づかれにくい(「地球から見えず」「深い坑道が入り組んで迷路状」に相当)ならば子供の秘密基地として最適ではないでしょうか。
鎮守の森(ちんじゅのもり)や神社林(じんじゃはやし)が外界との境界になっている無人の神社や、人の背丈よりも高い葦(あし)などに周りを囲まれた湿地帯の沼なども、秘密の場所として適地でありましょう。
そのような場所では、他人に気兼ねすることなく、さまざまな試みや企てが許されます。
子供たちの秘密基地では、エロ本を読むのも自由!
(※良い子はマネしてはいけません)
湿地帯の沼地では、葦でさえぎられているのをいいことに青空のもとで恋人同士が……。
(※これ以上は自粛)
ともかく、他人の目のある場所ではしにくいことも大胆に。
まさに、それこそがエゥーゴにとってはアンマンだったのでしょう。

アンマンからティターンズ打倒の策謀と、サラミス改などの艦艇やネモなどMSが製造されてつぎつぎと戦地へ送り出されていきました。
グリプス戦役に勝利して宇宙世紀の歴史を変えたエゥーゴ、その勝利に貢献したアンマンも宇宙世紀の歴史を大なり小なりつくり出した歴史的な都市と言えるのではないでしょうか。



カミーユ・ビダン&富野由悠季は、自閉症なのか?『機動戦士Zガンダム』



ぼくは……自閉症の子供なんだ

エマ・シーンに叱られたとき、カミーユみずからが「ぼくは見込みありません、自閉症の子供なんだ」と言い訳をしていました。
果たして、カミーユは本当に自閉症なのでしょうか?




カミーユ……屈折したキャラクター造形

わたしは、けっこうカミーユ好きです。
富野監督はカミーユのことかなり嫌いみたいですけどね。
すくなくとも、精神状態がすさんでいたテレビ版は。
聞き分けのよい少年になった劇場版のカミーユはどうなのかわかりませんが。

カミーユの心の屈折したキャラクター造形は、かなりリアルだったと思います。
『Z』本放送のとき、わたしは中学2年でしたがカミーユには共感を覚えました。
少年少女なんて、大なり小なり、心が鬱屈してすさんでいるのが当たりまえなのでは?
もちろん、そのすさみが大きすぎるのは困りものですが、それなりにであったなら人生の通過儀礼なのではないでしょうか。




居場所のない少年、カミーユ

カミーユは、身の置きどころ探しに苦労している印象でした。
世間や社会どころか、家庭にも「居場所」がありませんでした。
父は愛人のマルガリータに入れあげていて、母は仕事に夢中。
カミーユの母ヒルダの仕事への没頭は、もしかしたら、夫との冷めた関係から現実逃避していたのかもしれません。
カミーユの家庭は機能不全状態でした。

だから、ホモ・アビス(ハングライダーにブースターパックがついたような小型飛行機)の大会で2年連続優勝、ジュニアモビルスーツの大会で優勝、グリーンノアでも有数の空手の使い手になれたのかもしれません。
この頑張りも、カミーユの「居場所」づくりの一環かもしれません。
好成績を残せば部活の中心人物になり、ちやほやされるでしょう。
他人から承認されるかもしれません。
そのように、他人から認知され「居場所」を築こうとしていたのかもしれません。




カミーユは愛着障害かも

カミーユは「愛着障害」の可能性あり、とわたしは思っています。
子供のころに親などからじゅうぶんな愛情を得られず、そのため人間不信になり他人との積極的なかかわりを避けたり、逆に、寂しさから他人に依存したりしてしまうのが「愛着障害」です。

他人の評価に依存しようとする承認欲求の高さが、カミーユのホモ・アビスやジュニアモビルスーツの腕前上達の原動力だったかもしれません。
じっさい、愛着障害の方たちは、名声を得るために人一倍努力するからなのか各分野で成功する可能性がけっこう高いのです。

また、両親の愛情に恵まれず、そのため人間不信になり他人に心を閉ざしたカミーユに、愛着障害は良く合致しているようにも思われます。




先天的要因の自閉症と後天的要因の愛着障害

では、「自閉症」の可能性はどうでしょう?
自閉症は、他人とコミュニケーションを取るのがむずかしいなど愛着障害と似た症状を呈します。

ただし、自閉症と愛着障害には決定的な違いがあります。
愛着障害は、親の愛情不足や育て方など後天的な要因に起因しています。
自閉症は親の愛情や育て方とは無関係。
遺伝子の異常や、受胎時・出産時の事故などで脳機能に障害を負ってしまうことなどが原因とされています(異説あり)。
親がどうすることもできない遺伝子の異常など先天的要因が、自閉症の主な原因なのです。



カミーユと富野由悠季は自閉症?

「ぼくは見込みありません、自閉症の子供なんだ」と言っているように、カミーユは自分を自閉症だと思っていました。
一方、富野監督は他人からよく「自閉症的」と言われたそうです。
富野監督自身も、渋々ながら自分が自閉症的であることを認めていました。

カミーユと富野監督は、自分のことを自閉症だと思っている子供と大人なのです。




カミーユと富野由悠季は自閉スペクトラム症かもしれない

自閉症は、現在では「自閉スペクトラム症」が正式な診断名です。
「自閉スペクトラム症」には、「自閉症」「アスペルガー症候群」「特定不能の広汎性発達障害」「小児期崩壊性障害」が含まれます。
これらは、かつては別々の診断名でしたが、現在では明確な区別はむずかしいということで「自閉スペクトラム症」という一つの診断名に統合されました。

「自閉スペクトラム症」は、まわりの人間と関係を築くのがむずかしく、特定のことに尋常でなくこだわるなどの特徴があります。
カミーユも富野監督も、人間関係は不得手で、特定のことにこだわるなど、自閉スペクトラム症の可能性はあります。
ただし、人間関係が得意でない、こだわりが強い、その他の特徴に一致しているからといって、それで自閉スペクトラム症であると決定されるわけではありません。
医師の診断によって、自閉スペクトラム症だと思っていたのにそうでなかった、逆にそうではないと思いつつ試しに診断を受けたら自閉スペクトラム症だったという事例は数多くあります。

カミーユや富野監督が自閉スペクトラム症であると結論づけるには、医師の診断が必要でしょう。




自閉症だから見込みがないわけではない

カミーユが口にした、自閉症だから「ぼくは見込みありません」というのは、一概には言えません。
自閉スペクトラム症のために人間関係などで苦労されたり、他人が簡単にできることができなかったりと負の側面はあるものの、他人ができない離れ業をやってのける「天才脳」などを持っている自閉スペクトラム症の方たちもいらっしゃいます。

何年何月何日は何曜日であることを、卓抜した暗算力で一瞬のうちに計算してのけたり。
一度目にしたものを写真のように一瞬で脳に刻みつけるカメラアイの能力があったり。
そこまで顕著でなくとも、普通に記憶力や暗記力にすぐれていて高学歴だったり、仕事で活躍したり、芸術的才能に恵まれていたりする方たちもいらっしゃいます。

自閉スペクトラム症であるから「見込みありません」というわけでもないのです。




富野由悠季のカミーユ嫌いは同族嫌悪かも

富野監督も、自分の「居場所」確保に苦慮していた気配があります。
富野由悠季自伝『ターンエーの癒やし』で、親友が一人もおらず、奥さんをのぞいては孤独であったと述懐しています。
親友なしで孤独であるなら、家庭ではともかく、世間に「居場所」はなかったでしょうね。
この著書を書いた2000年ごろには、その孤独感もそれなりにやわらいだとのことですが。

富野監督はテレビ版のカミーユを嫌っていますが、二人はよく似ているように思えます。
もしかしたら、富野監督のカミーユ嫌いは同族嫌悪なのかもしれませんね。

パプテマス・シロッコ&ジ・O(ジ・オ)……「神の意志」を体現したMS 『機動戦士Zガンダム』



ジ・O……意味するところは「神の意志」あるいは「神そのもの」

「歴史の立会人」を自任したパプテマス・シロッコは宇宙世紀ガンダムのなかでも指折りの天才であり、それに比例するような傲慢な人物でした。
それは、シロッコの最後の愛機であるジ・O(ジ・オ)の名前の由来にもあらわれています。

「ジ・O」は「THE O」。
「THE O」は「THEOLOGY(神学)」の略称。
意味するところは「神の意志」。
あるいは、「神」そのもの(ジ・Oデザイナーの小林誠によると)。




唯一にして完全なる球体は「神」

THEは「唯一」を。
Oは「完全球体」を意味するといいます。
この「唯一の完全球体」とはなんでしょうか?

「神」です。

この世で完全な球体に見えるものも、ミクロレベルでいえば表面はでこぼこしています。
ですから、人間の世界には完全なる球体は存在しません。
では、どこに存在するのか?
神の領域です。
だから、完全なる球体=「神」なのです。

わたしは哲学には疎いのですが、歴史の本はそれなりに読んでいます。
古代ギリシアや仏教関連の書籍を読んでいると、この「完全な球体とは神のこと」あるいは「神のような次元の高い存在」という思想はけっこう良く目にします。

「THE O」は「唯一の完全球体」=「神」「神の意志」というのはあながち間違いではないのかもしれません。




宇宙世紀のパプテマスは、「神の意志」を体現して「世界を支配する女性」をバプテスマ(洗礼)しようとしたのだろうか?

シロッコの名前であるパプテマスは、キリスト教の「バプテスマ(洗礼)」に似ています。
名前からして、シロッコは宗教にゆかりが深いのかもしれません。

また、新約聖書に登場するイエスたちをバプテスマ(洗礼)した「バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)」は、救世主(キリスト)であるイエスを導いた先駆者です。

シロッコは、一握りの天才による世界の変革をもくろんだ男であり、その変革をなすのは「戦後世界を支配するのは女だと思っている」(シロッコ)というように、世界を支配する女性(天才の女性か?)の導き手としてみずからを任じているようにも思えます。
このスタンスは、洗礼者(バプテスマ)に近い立ち位置とは言えないでしょうか?
これこそが、シロッコの「神の意志」の体現なのかもしれません。




神そのものになろうとしたかもしれない宇宙世紀のパプテマス

「神の意志」を体現しようとしたのかもしれないシロッコ。
しかし、「一握りの天才」以外の俗人を「天才の足を引っ張ることしかできなかった」と見下すシロッコの性格を考えれば、「神」そのものになろうとした可能性も捨てきれません。
ジ・Oの名称は、その宣誓の意味があったのかもしれません。
もちろん宣誓の相手は……「神」です。

ティターンズ……見られた「見るが良い、この暴虐な行為を」『機動戦士Zガンダム』(&袁術『三国志』)



ティターンズの暴虐


ティターンズの滅亡は、自業自得の典型例の一つ。

戦局がさほどティターンズに不利ではない時点で、民間人をねらったコロニーへの毒ガス注入、コロニーレーザー砲撃、コロニー落としを繰り返したのです。
ティターンズに反抗するとどうなるかの見せしめ……威圧のためでしょうが、それにより起きる反感、敵意といったものに思い及ばなかったのでしょうか。

月のグラナダにコロニー落とし、失敗
サイド2・25バンチに毒ガス攻撃、失敗
サイド2・18バンチをコロニーレーザー試射、半壊
サイド2・21バンチに毒ガス攻撃、住民全員死亡

そこには粗暴なバスク・オムの意思が強くはたらいています。
それに賛同するバスク派ティターンズ幹部の意思も。
そのため反ティターンズ感情はたかまり、ダカールにおけるシャアの演説によりティターンズ離れが加速しました。
ティターンズが追いこまれるなか、総帥のジャミトフはシロッコにより暗殺、ついでティターンズNo2のバスク・オムも(TV版ではシロッコの部下のレコア、劇場版ではシロッコの盟友のヤザンの)裏切りにより暗殺、最終決戦では、奪われたコロニーレーザーにより主力艦隊壊滅、一応のトップにおさまっていたパプテマス・シロッコ戦死によりティターンズは崩壊しました。

UC.0085年の「30バンチ事件」の成功体験が、バスクをはじめティターンズ幹部の頭にはあったのでしょう。
このときは、サイド1・30バンチにおける反地球連邦政府の平和的なデモを、毒ガスG3を注入することで鎮圧しました。
コロニーの住民1500万人もろとも虐殺。
まったく必要のなかった毒ガス攻撃での任務成功が、もとから狂気をやどしていたバスクとティターンズ幹部の心のなかに、さらに凶暴な闇をはらませたのかもしれません。
(ちなみに、総帥ジャミトフは無意味な大量殺戮には消極的でした。
しかし、軍事における指揮権はバスク派に乗っ取られていた形跡があります。
劇場版では、地上のダカールから宇宙を見上げ、バスクたちの無差別殺戮に「歴史的評価」の観点から苦言をもらしていたのが印象的でした)

まことにそれは、シャアのダカール演説での「見るが良い、この暴虐な行為を」であり、「逆らうものはすべてを悪と称しているが、それこそ悪である」ティターンズの体質そのものでした。




袁術『三国志』……この袁術ともあろうものが、ここまで落ちぶれるとは


『三国志』にも、自業自得を地でいく最期をとげた人物がいます。
『三国志』の嫌われ者の一人、袁術(えんじゅつ)(?~199)です。

『三国志』は中国大陸が舞台。
ときは、後漢(25~220)の末期と三国時代(220~280)。
後漢が統治能力をうしなった黄巾の乱(184)から、『三国志』でもっとも有名な戦いである赤壁の戦い(208)、歴史上の中国人のなかで日本人にもっとも人気があるかもしれない諸葛(しょかつ)孔明の死(234)を経て中国が統一される(280)、およそ100年間が『三国志』の主要な時代。

後漢は腐敗し、それが頂点に達したとき後漢王朝に対する民衆の反乱「黄巾の乱」(184)が勃発しました。
ここから天下は麻のごとく乱れ、群雄が割拠、あるものは後漢王朝再興を夢見、あるものは新たなるみずからの王朝をひらく野望を抱きました。

『三国志』といえば、曹操・劉備・孫権に代表される魏・呉・蜀の三国のあらそいが有名ですが、もとは、前王朝の後漢にとってかわり新王朝をひらくのは袁紹(えんしょう)・袁術のどちらかと見なされていました。
二人は、腹違いの兄弟(『袁紹伝』)かいとこ同士(『袁術伝』)。
袁家は、漢王朝の劉家につぐくらいの家格の高い大名門でした。

しかし、二人はその利点を生かせませんでした。
とくに袁術のほうは、無能で信望薄く、あっけなくもその勢力は瓦解します。

袁術は横柄な人間でした。
大名門の子弟であることをいいことに、人を見下すことはなはだしい。
袁術は本妻の子、袁紹は妾腹の子でした(兄弟説によれば)。
しかし、快活で謙虚な妾腹の袁紹の声望のほうが圧倒的に高く、それを妬み、袁紹の出自の低さをことあるごとに持ちだして誹謗中傷を繰り返しました。



袁術は197年、皇帝に即位しましたが、あまりにも時期尚早でした。
いまだ、後漢の皇帝家は多くの信望をあつめていたのです。
というより、時期にかかわらず無謀なくわだてだったかもしれません。
傲慢な袁術はみなから好かれていません。
皇帝としての信任を取りつけることは難しい。
袁術はおのれの名声を勘違いしたのでしょうか、それとも、名門ゆえに好き勝手ばかりしてきたため忍耐のきかない性格だったのでしょうか。

「袁術皇帝」(国名は「仲(ちゅう)」)の在位期間は197~199。
風のように去っていった皇帝でした。
というより、ほぼ誰からも認知されなかった「皇帝」です。

袁術の治めた国は最悪に近い状態になりました。
長江と淮河(わいが)のあいだに建国された地方政権でした。
袁術は奢侈放蕩の生活のために重税を課し、ために宮中には米と肉がありあまっていましたが、領民や兵士は飢え困窮しました。
一説には、人民はたがいに食いあうありさまだったといいます。

袁術の自己中心的な性格は病的だったのかもしれません。



その報いがきます。
袁術の王国は、うちつづく負け戦・悪政・飢饉のために衰退しました。
帝位をゆずることを条件に、袁紹の庇護をもとめます。
袁術は袁紹のもとへ。
しかし、曹操がそれをさまたげ、袁術は袁紹と合流することができませんでした。

ついで、部下をたよって落ち延びましたが、部下は袁術を拒絶。
どこにも安らげる居場所のない「皇帝」。
そうこうするうちに食糧は尽き、麦くず30石しかないありさま。
夏の暑い盛り、蜂蜜入りの飲物を所望しても、蜂蜜もまたなし。
袁術は木の寝台に腰をおろし、ため息をつきました。
やがて大声で、
「この袁術ともあろうものが、ここまで落ちぶれるとは……」
と怒鳴り、寝台に突っ伏し、一斗あまりの吐血をして事切れてしまいました。

自分は贅沢のかぎりを尽くし、民は飢えさせた袁術は、最期は蜂蜜入り飲物すらおもうにまかせず、無念のうちに死んでいったのです。
「袁術ともあろうものが」ではなく、袁術だからこそここまで落ちぶれたのでしょう。

その最期はたしかに哀れを誘いますが、因果応報というしかないでしょう。


カミーユ・ビダン……カミーユ・クローデルの数奇な運命(ロダンとの恋)『機動戦士Zガンダム』



カミーユ・ビダン


カミーユ・ビダンは、自分の名前が女性名であることにコンプレックスをいだいていました。
(ただし、地域によっては「カミーユ」は男性名でもある)
そのため、それをからかった(あるいはカミーユが勝手にそう思いこんだ)ジェリドを殴り、憲兵に逮捕され、留置所から脱走し、グリーンノアを襲撃したエゥーゴと合流、そのままグリプス戦役に身を投じ、波乱の人生をおくることになります。




カミーユ・クローデル


その「カミーユ」のネーミングのモデルになったカミーユ・クローデルは、数奇な人生をおくった女性でした。
もしかしたら、カミーユ・クローデルから「カミーユ」の名を拝借したとき、TV版『Z』ラストにおいてカミーユが精神を喪失する運命は定まったのかもしれません。
カミーユ・クローデルその人が、精神の病におちいり、そのまま人生を閉じた女性なのです。




カミーユ・ビダンとカミーユ・クローデル


クローデルは美しい女性でした。
きわめて美しい。
秀麗な目鼻立ち、物憂げな表情が神秘的。
写真を見てみると、クローデルはカミーユのルックスのモデルにもなったのではないかと、そんな気もします。

黒髪であることもおなじなのですが、ヘアスタイルも似ています。
わたしの個人的感想では、目鼻も酷似しているような。
女性らしい厚い唇を隠して見てみると、驚くほどカミーユに似ているようにおもえるのです。
もちろん、カミーユの名前由来の女性であるというバイアスがそうおもわせるのかもしれませんが。



家族との確執という点でも、2人のカミーユは共通しています。
クローデルは母と。
カミーユはとくに父と。
ただ、恋人に関してカミーユはめぐまれていました。
ファ・ユイリィの献身的な看護は、カミーユの救いであったでしょう。
しかし、もう一方のカミーユは、その恋人にすらめぐまれませんでした。
邪悪ではなかったのかもしれませんが、不実で優柔不断な愛人だったのです。
クローデルは、母の愛にめぐまれず、愛人の誠実さにもめぐまれなかった女性でした。




カミーユ・クローデルとロダン


カミーユ・クローデルは1864年生まれの彫刻家。
芸術家としての豊かな才能、きわだった美貌は、彼女に彫刻家として、かつ一人の女性としての成功を約束しているようにおもえたかもしれません。
しかし、運命はその逆をカミーユ・クローデルに歩ませることになります。

19歳のとき、クローデルはオーギュスト・ロダンに弟子入りします。
ロダンこそが、のちの不実にして優柔不断なクローデルの愛人です。

ロダンは、『考える人』があまりに有名な彫刻界の大巨匠。
ほかにも『カレーの市民』『地獄の門』などの代表作があり、高校世界史の教科書・参考書の常連。
歴史に残る大彫刻家です。

とはいえ、若いころのロダンの人生は順風満帆ではありませんでした。
要求される技術的水準がさほど高くない美術学校に、17歳から3年間にわたり不合格。
まったく相手にされなかったといいます。
入学をあきらめざるをえなかったロダンは、装飾職人になります。
しかし、戦争による不況などもあって、30歳まで家族を養う稼ぎを得られませんでした。

23歳のころには、経済的な援助をしてくれていた姉が亡くなります。
ロダンの紹介した恋人と破局し精神を病んだ姉は、俗世を捨てて修道女になりますが修道院で体調を崩して病没。
ロダンは、知人を姉に紹介したことに激しい罪悪感をいだいていたといいます。

そんなロダンも、40歳のころ、『青銅時代』がパリのサロンに入選、審査員からの絶賛を受け、ロダンの名前は一躍フランスじゅうに知れわたりました。
そして、その盛名を慕い、ロダン42歳のとき、19歳のクローデルが弟子入りします。
モデル兼助手として雇われました。
さほど間を置かず二人は、愛し合うようになります。
15年におよぶ恋がはじまったのです。




女癖の悪い優柔不断なロダン


ロダンには4歳年下の内縁の妻がいました。
入籍はしていませんが、ロダン24歳のときから連れ添う事実上の妻です。
鳴かず飛ばすであったロダンを、物心両面でささえた糟糠(そうこう)の妻でした。
2人のあいだには子供もいます。
妻の名はローズ

以前より、ロダンは浮気を繰り返していました。
クローデルにたいしても、自分から言い寄っていきました。
懲りない男なのです。
クローデルにとっては初恋だったともいいます。

ロダンは、ローズには安らぎと平穏を、クローデルには美貌と才能がもたらす刺激的な関係をもとめたといいます。
ローズとクローデルの双方からどちらを選ぶのか迫られることが幾度もありましたが、ロダンは優柔不断な男でした、答えをいつまでも出せないまま、ずるずるとその関係がつづきます。
私見になりますが、シスターコンプレックスかもしれないロダンは、ローズに亡くなった姉の面影を見ていたのかもしれません。
自分が死なせたのではないかという罪悪感をもつ姉。
姉につつまれるような安らぎと安穏を、ロダンはローズから得ていたのかもしれません。
だとすると、その点でもクローデルは分の悪い恋に身を投じたといえるかもしれません。




カミーユ・クローデル……恋に破れて


クローデルは、ロダンとの結婚を夢見ていました。
しかし、ロダンにはローズを捨てる意思はありませんでした。
ローズは妻、クローデルは美貌の恋人、それがロダンの終始変わらぬスタンスでした。
(一説には、ローズが嫉妬深く、こわくて別れ話を言い出せなかったとも)

20代後半にはロダンの子を身ごもります。
しかし、それを知ったロダンは中絶させます。
この堕胎のころから、徐々にクローデルの精神は崩れはじめたともいわれています。

30代半ば、ロダンとの15年の関係は破綻しました。
クローデルとの恋に疲れたロダンは、ローズのもとへ帰っていったのです。
クローデルの精神はさらに崩れ……。




カミーユ・クローデル、精神病院に


ロダンと別れたあとも、ロダンの影がクローデルにはつきまといます。
傑作をつくりあげてもロダンの模造ということで、だれもクローデルの作品には見向きもしませんでした。
フランスにおいて「我が国の栄光」とまで評されたことのあるクローデルの才能は、ロダンの模倣の一言で片づけられてしまうようになったのです。
作品は売れず、クローデルは極貧に。
友人はなし。
家族からは孤立。
ロダンへの憎しみは募る。
そんななか、40代後半、統合失調症を発症。
1913年、48歳のときにパリ郊外の精神病院に。
第一次世界大戦(1914~1918)の影響で、南仏の精神病院に。
30年間、クローデルは亡くなるまで精神病院に入院しつづけました。




カミーユ・クローデル……家族に恵まれなかった女性


ロダンとの不倫にのめりこんだ要因の一つに、家族からの孤立があったともいいます。
クローデルは、母親に愛されませんでした。
もともと、母親は子供が好きではなかったといいます。
さらにクローデルは、保守的な母親がまったく理解できない芸術に情熱をかたむける娘でした。
クローデルは母に嫌われていたのです。
母と妹は、一度も見舞に来ることはなかったそうです。
4歳下の弟だけが年に一度(数年に一度?)、姉を見舞ったそうです。
それも、弟が結婚し、外交官として国外に赴任すると途絶えがちになったといいます。
クローデルは寂しい女性だったのです。




ロダンの末期(まつご)の言葉「パリに残した、若いほうの妻に逢いたい」


1917年、ローズに死期が迫っていました。
そんななか、ロダンはついに結婚の手続きをしました。
ロダン77歳、ローズ73歳。
50有余年にしてついに結婚。
その影には、クローデルの犠牲がありました。
結婚の16日後にローズ死去。
その9か月後の1917年11月17日、ロダン死去。

ロダン末期の言葉は、
「パリに残した、若いほうの妻に逢いたい」
であったそうです。
これは、クローデルのために喜ぶべきなのでしょうか。
それとも、男の身勝手な願望とののしるべきでしょうか。

女性にもてないわたしなどからすると、都合よくふざけるな、と言いたいところです。
しかし、クローデルのことをおもうと、せめてもの慰めととらえるべきなのでしょうか。

人は、手に入れられないものへの情熱には身を焦がしますが、手に入れたものの大切さには気づきにくいのでしょうか。
もてたらもてたで大変ということですかね?
わたしには、さっぱりその気持ちがわかりません。




カミーユ・クローデルの晩年


晩年のクローデルは、ロダンを憎み、周囲の患者の方たちを見下すことで精神の孤高をたもったといいます。
ロダンへの憎しみはともかく、苦しみを分かちあうべき他の患者の方たちを蔑むというのは哀しいことです。
それだけ、クローデルは寂しい人だったのでしょう。
また、クローデルは終生、故郷に帰ることを望みましたが、その願いがかなうことはついにありませんでした。




カミーユ・クローデルからカミーユ・ビダンへ……


1943年、78歳(79歳)、カミーユ・クローデル没。



1985年、カミーユ・クローデルの「カミーユ」を戴いたカミーユ・ビダン……。