FC2ブログ

Contents

『巨神ゴーグ』(1984)…… 「異星人文明の発掘」と「神々のいびき……地鳴り」(&茨城県古河市 新三国橋)



巨神ゴーグ


人里離れた建設現場や発掘現場に出くわすと、『巨神ゴーグ』(1984)のことを思い出します。



『巨神ゴーグ』は安彦良和作品。
企画、原作、監督、作画監督、キャラクターデザイン、ロボットデザイン、絵コンテ、作画監督の主要な役職を安彦良和一人で手がけています。

安彦良和の主な業績は以下の通り。
『クラッシャージョウ』『アリオン』『ヴイナス戦記』などアニメ作品の監督(前二作品はキャラクターデザイン・作画監督も。後二作品は原作も)。
『勇者ライディーン』『超電磁ロボ コン・バトラーV』『機動戦士ガンダム』『劇場版 機動戦士ガンダム』『無敵超人ザンボット3』『機動戦士Zガンダム』『機動戦士F91』などのキャラクターデザイン(前四作品は作画監督も)。
漫画家としても、『アリオン』『クルドの星』『ヴイナス戦記』『ナムジ』『虹色のトロツキー』『神武』『韃靼タイフーン』『機動戦士ガンダム THE ORIGINE』『天の血脈』『ヤマトタケル』など歴史・ファンタジー・SFを題材にした作品を多数、ものしています。



『巨神ゴーグ』
13歳の少年・田神悠宇(たがみゆう)は、亡き父が研究していた秘密を追って、南太平洋に浮かぶオウストラル島へ。
同行するは、14歳の女の子ドリス・ウェイブと、その兄で悠宇の父の弟子トム・ウェイブたち。
そこは、【あるもの】を探しもとめる世界的コングロマリットGAIL(ガイル)に支配されていた。
【あるもの】の秘密に近づこうとする悠宇たちを抹殺しようとするGAILの私設軍隊。
そんななか、優しい目をした青い巨神……ロボットの「ゴーグ」に出会う。
この出会いは、3万年の秘密を呼び覚ますことになる……。




秘密が眠るオウストラル島


オウストラル島は、南太平洋、サモア諸島東南2000キロに浮かぶ島。
旧島と新島があり、旧島は古来より連綿と存在、新島は3万年前に海の底にもぐったものが近年再浮上した島。
この広大な新島の各所で、【あるもの】を目当てにGAILが発掘を繰りひろげています。
新島は近年まで海底に沈んでいたため無人の島であり、ジャングルや山裾や渓谷や河畔で採掘作業に従事している作業員と、それを護衛する私設軍隊の傭兵の、GAILに雇われたものたちだけがほぼ人のすべて。
ほぼ……。
ですから、作業現場はさびしい。
(例外は、GAILに敵対する悠宇やドリスたちと……)
作業員と傭兵の数は相当な数にのぼるとはいえ、相手は広壮な自然界。
大自然に呑みこまれそうななか、作業員たちがほそぼそと発掘作業に従事しています。
世界の片すみで働いているかのような寂寞(せきばく)とした雰囲気に、そこは満ちていました。




悠久の大自然、寂しい工事現場


35年前(1984年)のこの印象があまりに強烈で、いまだに人家や人気(ひとけ)が周囲にない工事現場を目にすると『ゴーグ』を思い出します。

90年代、2000年代、わたしは記憶の障害をわずらい、その療養もかねて自転車(普通自転車)でさまざまな場所へ行き来していました。
往復25~30kmの距離だと、近場という感覚しかありませんでした。
最大だと往復120kmくらい。
そのため、いくつもの工事現場を目にしてきました。

たとえば、茨城県古河市の新三国橋(しんみくにばし)の工事現場。
2000年に開通した全長2500m、そのうちアーチ部685mの大きな橋。
渡良瀬川をまたぎ、埼玉県加須市と茨城県古河市をつないでいます。

いまや、交通のかなめになった新三国橋の周辺は、古河総合公園が拡大整備されたり、店舗が建ち並んだり、住宅街も整備されたり、にぎやかなものになっています。
新たに出現した小さな都市といっていいでしょうか。

しかし、90年代後半のころは、その周辺に大河である渡良瀬川を渡河する大きな橋がないため人の往来はまばらでした。
平日の日中などは、河川敷にも堤防にも人がいない。
じつに寂しい場所でした。
世界の隅っこのような印象。
ここに、渡良瀬川にかかる巨大な橋を建設する、規模の大きな建築現場がありました。
ですが、周囲のうら寂しさゆえに、そのなかにぽつりとあらわれた巨大建設現場は、渡良瀬川の悠久の大自然のなかで孤立して、うそ寒くなるくらいに生気がありませんでした。

建設作業員の方たちには申し訳ないのですが、まるで建設中の橋ごと幽霊であるかのような、幻影であるかのような、蜃気楼であるかのような現実感のなさ。
わたしが自転車でやってきたよそ者で、地理不案内のため、疲労と疎外感でそのようなおもいがつのっていたのかもしれませんが、明日また訪れたなら、建築現場はそこにはまったく存在せず、夢幻と消えていたとしても不思議ではない、そんな「うつろ」さがありました。

悠宇やドリスたちの目にも、オウストラル島の発掘現場はこのように見えていたのでしょうか。
ただ、悠宇たちはGAILに生命を狙われていて、ただたんに堤防の上から川のなかの工事現場をながめていただけのわたしとは緊迫感がまったく違いますが。




目的は異星人


GAILの発掘作業がなにを目的にしているのか、それは物語の終盤まであきらかになりません。
ただ、ヒントはゴーグにあります。
悠宇とともに戦うゴーグは、言葉はしゃべりませんがみずからの意思で戦い、かつ、地球の現有兵器ではまったく歯がたちません。
ゴーグは、ロボット。
全高13.5mの青い巨人。
戦車や戦闘ヘリコプターを擁するGAILの軍隊は敵側ですが、気の毒になるくらいゴーグにたちうちできません。
ゴーグは基本的に素手で戦い、そこいらに転がっている巨岩や生えている巨木を投げたり振り回したりするだけで、飛び道具はもっていないのに。
これは、地球のテクノロジーとはちがう、はるかに進んだ「なにか」により産みだされたものであろうことは明白です。

しかし、謎のヴェールはちょっとずつちょっとずつ剥がれていきます。
そして明らかになったのは。
……異星人でした。
故郷をうしない、3万年の太古に、地球に漂着した異星人が降り立ったところがオウストラル新島でした。

GAILは、その卓越した異星人文明の独占をはかっていたのです。
発掘は、異星人文明の獲得をめざしたものだったのです。



地鳴り……届けられた「神々のいびき」


物語の初期のころから、オウストラル島全体に正体不明のくぐもった神秘的な地鳴りがときどき鳴り響いていました。
この地鳴りは、オウストラル新島奥深い火山の洞窟のなかから響いてくるものでした。
この洞窟のなかで「異星人」たちは3万年の眠りに就いていたのです。

地鳴りには、雷=「神」鳴りのように、霊妙な存在を推知させる意図が安彦監督にはあったのかもしれません。
安彦監督は、そのような神話や伝説に造詣(ぞうけい)の深い方です。
じっさい、地鳴りは「神」とまがう超テクノロジーをもった異星人たちの眠る「宮殿」から発せられたものでした。

わたしは、遠方からとどく雷鳴や不可思議な物音を耳にしたときも『ゴーグ』のことを思い出すことがあります。
そして、その源にはなにか得体の知れぬものが存在しているのではないかと、一瞬、錯覚するのです。



80年代の土曜のアニメ……土曜の放課後は安心とともに



土曜の午後は天国


かつて、土曜の午後は天国でした。
学校から、もっとも遠いので。

いまとちがい、公立の学校でも土曜は午前中だけ授業がありました。
それが終われば、土曜の午後から月曜まで学校に行かなくていい。

小学5年~中学3年まで、いじめやらなにやら最悪の学校生活をおくっていたわたしには、土曜の放課後が一週間のなかでもっとも安らげるひと時でした。
家に帰り、二階の自室に行くまえに一階の茶の間でカバンと制帽を放り出しへたるようにそこに座ると、どっと一週間の疲れが体内からあふれだす。
一週間の緊張がとけて、ほっ、と深ーい深ーい安堵の念にみたされる。

高校のときは学校生活が充実していて、それでも土曜に帰宅すると緊張がすっと抜けていくように心が安らぐのをおぼえましたが、こちらは責任感から解放されたからかもしれません。
高校のときは、生徒会副会長、クラス委員長、そして偏差値40前半の学校でしたが学年トップでしたので、そこから解放され、ちょっと一安心していたのかもしれません。




土曜のアニメたち


そのころ、土曜夕方5:30は富野アニメとその後継者であるサンライズアニメが定番でした。
小学6年の9月24日、『聖戦士ダンバイン』(1983~84)を観はじめて以来のことです。
『重戦機エルガイム』(1984~85)『機動戦士Zガンダム』(1985~86)『機動戦士ガンダムZZ』(1986~87)とつづいて富野アニメはひとまず終了、ついで神田武幸監督の『機甲戦記ドラグナー』(1987~88)、そのあとちょっと飛んで池田成監督・浜津守監督の『鎧伝サムライトルーパー』(1988~89)、鹿島典夫監督の『獣神ライガー』(1989~90)へとつづきます。
1989年には、1984年以来、2台つづけてビデオデッキβ専門だったわたしははじめてVHSデッキを購入、やっとレンタルビデオでソフトを借りられるようになり、わたしのなかでOAVの大ブームに。
そのため、あまりTVアニメを観なくなり、『獣神ライガー』は途中から観なくなりました。

ほかの時間帯だと、『パタリロ!』(1982~83)(夜の7:30。放送曜日は木→土→金と変遷)や『聖闘士星矢』(1986~89)(夜7:00)など思い出深い作品がありました。

土曜は心安らかにアニメを鑑賞できましたね。


セーリング・フライ(『伝説巨神イデオン 接触編/発動編』主題歌)……ばら色の唇が 君をまよわせて



『伝説巨神イデオン 接触編/発動編』


伝説巨神イデオン』劇場版(1982)。
地球人は、はるかかなたの移民先の惑星・ソロ星で太古の第六文明人の遺跡を発見する。
かたや、異星人バッフ・クランも無限エネルギー【イデ】の鍵となる第六文明人の遺跡を探索していた。
不幸な出会いから、地球とバッフ・クランは戦争状態へと。
こうして、スペース・オッデセイの幕が開く。
この戦争は、全人類の運命を巻き込んでいく。
戦いが進むにつれ、明らかになる【イデ】の正体。
第六文明人の無限エネルギー【イデ】は、地球/バッフ・クラン双方にとって、掘り起こしてはならない禁断の存在だった。




セーリング・フライ(歌:水原明子 作詞:井荻麟(富野喜幸))


その主題歌「セーリング・フライ」。
アニメソングのなかでも、わたし的には5本の指に入るであろう大好きな曲です。
(作品そのものも、劇場アニメで10本の指に入る大好きな作品)

歌うは水原明子さん。
澄んで透明な歌声にうっとり。

作詞は富野監督。
富野監督は井荻麟(いおぎりん)名義で、数多くの富野作品楽曲の作詞を手がけています。

井荻麟の特徴としては「美は乱調にあり」といったところでしょうか。
よく考えると、意味のわからないところが多々ある。
それまでの歌詞と関係のない内容が、いきなり、ぽんと出てくる。
論理的ではない。
しかし、それが情熱的といいましょうか。
理性にではなく、本能にうったえかけるのです。

それに、言葉に、心に突き刺さるものがあります。



『イデオン』劇場版を鑑賞したのは大人になってからですが、「セーリング・フライ」は公開当時かそれからさほど年月を経ていない時分、ラジオのアニメ番組で流れた曲を録音して何度も聴きました。
小学5、6年のころです。

以下、歌詞の一番を抜粋します。
(『ロマンアルバム・エクストラ51 伝説巨神イデオン THE MOTION PICTURE』徳間書店より)



あこがれだけに まどわされたり
つらさのがれの 逃げ道にして
行ってはいけない メフィストのくに
ばら色の唇が 君をまよわせて
flying now flying now
なにも思わず 心ふさいで
生まれでる 君ならば
忍び恋のように スペース・ランナウェイ
スペース・ランナウェイ
月と星の間(なか)を スペース・ランナウェイ
セーリング・フライ
忍び恋のように スペース・ランナウェイ
スペース・ランナウェイ
月と星の間(なか)を スペース・ランナウェイ
セーリング・フライ

セーリング・フライ セーリング・フライ
セーリング・フライ セーリング・フライ
セーリング・フライ セーリング・フライ




行ってはいけないメフィストの国


「行ってはいけないメフィストの国」ってなんでしょうね?
メフィスト・フェレスは、16世紀ドイツのファウスト伝説に登場する悪魔。
メフィスト・フェレスは欲望をかなえてくれます。
しかし、死後、その代償として魂を奪われてしまう。
魂が悪魔に隷属することになる。
そうまでして、欲望をかなえたい人間のあさましさと哀しさを伝えるのが、ファウスト伝説です。
この伝説をもとに大詩人ゲーテがものした戯曲『ファウスト』では、誘惑の悪魔としてメフィスト・フェレスは登場します。

(ちなみに、ファウストはメフィスト・フェレスと契約して地上のあらゆる知識と快楽を手に入れた錬金術師。
ゲーテのファウストは、博士。
伝説では、ファウストは破滅。
ゲーテ作品では、ファウストが努力家であり、かつ、天上にいるかつての恋人の純粋な愛の祈りなどにより、破滅から救済されます)

たしかに『イデオン』は、観客ターゲットを年齢高めに設定しているのでしょうが、子供に「メフィスト」はわからないですよね。
大人でも、ある程度の歴史的/文学的素養がないとわからない。
しかし、文学好きの富野監督は、「メフィスト」を歌詞のなかにいれたかったのでしょう。
欲望のおもむくまま憧れを不正にかなえたり、つらさ逃れの安逸をむさぼったりすることを富野監督はいましめたかったのかもしれません。
富野監督には、説教癖がありますからね。
子供のころは不思議な……それこそ呪文のような言葉の響きが「メフィスト」にはありました。




ばら色の唇が 君をまよわせて


そして、「ばら色の唇が 君をまよわせて」。
ここです。
ここが、富野ロマンの真髄です。

恋愛結婚ではない富野監督。
著書『「ガンダム」の家族論』のなかで、「あんまり好きなタイプじゃなかったんだよね」と奥さんに恋愛めいた感情をいだいたことはないというようなことを述べているので、この部分はだれかほかの女性を念頭に置いているのでしょうか。
……片想いの記憶でしょうかね。
どうも、富野監督に両想いのイメージが湧かないので(ひどい……)。

ばら色の唇……たしかに、あれには惑わされます。
まあ、本能的なものですよね。
理性が介在する間もなく、コロリといってしまう。
で、もてない人間は、なやむはめになるわけです。
煩悩。
懊悩。
というやつです。
ふられるのがイヤで告白できない。
しかし、想いを遂げたい。
でも、どうすることもできない。
好きになった女性のばら色の唇は、わたしには魔術でした。

わたしは共感をもって、小学・中学のころからいまにいたるまで、「ばら色の唇が 君をまよわせて」を時々口ずさみます。
すると、若いころのもやもやした感情がよみがえります。
すべての歌のなかでも、もっとも恋愛について心に突き刺さる一節が、「ばら色の唇が 君をまよわせて」かもしれません。

もてない富野監督だからこそ(勝手に決めつけて、すみません。しかし、そうとしか……)、考えつくことのできたフレーズなのかもしれません。
憧憬の念が、その願望をかなえたいという夢想を生み、その夢想がロマンチシズムの土壌になる。
手に入れることのできないあこがれは、ロマンを生む源泉なのかもしれません。
(なに言っているんだ、オレ?)




なにも思わず 心ふさいで 生まれでる 君ならば


なにも思わず 心ふさいで 生まれでる 君ならば
えっと……なんです、これ?
大人になっても、いまだに、ここは意味がわかりません。
自閉症的で心をふさいでいると他人から良く言われるらしい、富野監督自身のことでしょうかね?
冗談はさておき。
前後が恋についての言及なので、恋に臆病であることをあらわしているのでしょうか。
直後に、「忍び恋のように」ですから。
好きであることを打ち明けられない心情を歌っているのでしょうか。
ただ、意味はわからなくても、語感はいいなあとおもいます。
理性よりも感覚、それも富野監督の真骨頂でしょうかね?




忍び恋のように


忍び恋のように」、ここはサビの部分ですね。
忍ぶ恋の多そうな、富野監督の感情のこもったフレーズ。
わたしも共感。
「ばら色の唇が 君をまよわせて」に次ぐ、よく口ずさむフレーズです。




『伝説巨神イデオン 接触編/発動編』と『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを君に』


この主題歌「セーリング・フライ」は、劇場版二部構成(『接触編』と『発動編』)のうちの前半部分『接触編』の最後に流れます。
スタッフのクレジットも、いっしょに『接触編』のラスト。
普通は全体のラストにクレジットですが、『発動編』のラストにクレジットはありません。
物語のほぼ真ん中で、主題歌とともにクレジットを流すという珍しい構成です。

(ちなみに、この方式を踏襲したのが、旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを君に』(1997)です。
庵野監督は、『イデオン』の信奉者。
『ガンダム』よりも『イデオン』の人。
その庵野監督が、『Air』と『まごころを君に』二部構成のうち、前半部分の『Air』のラストで主題歌「タナトス」を流し、同時にスタッフ・クレジットを流しました。
劇場で観ていたわたしは、それに気づいたとき、庵野監督のあこがれの劇場版『イデオン』へのオマージュに暗闇でニヤリ、ちょっと嬉しくなりました)




主題歌「セーリング・フライ」のあとに……


この「セーリング・フライ」……『接触編』が終わると『発動編』。
『発動編』はアニメ史上まれに見るくらいの、主要キャラクターが次々に戦死していく物語。
『発動編』冒頭の2、3分で、『イデオン』でも男女それぞれで一番人気かもしれない美少女/美男子のキッチ・キッチンギジェ・ザラルが立て続けに戦死します(キッチ・キッチンは人気の美少女キャラですが、両想いの主人公ユウキ・コスモの見ている前で、戦闘の爆撃に巻き込まれ、首を吹き飛ばされて亡くなります)。
「セーリング・フライ」は、意図はしていなかったでしょうが、結果的に人々の死を先導するような役割をになってしまいました。




セーリング・フライ


片想い中の人には、とくに心にしみる一曲。
片想いの達人(かもしれない)富野監督作詞の「セーリング・フライ」はいかがでしょうか。



『めぞん一刻』……「一刻館」の住人になったつもりで



めぞん一刻


わたしは、リアルロボットアニメが好きです。
アニメでは、上位をリアルロボットものがほぼ独占しています。
生き死にのかかった状況下、人々が見せる人間ドラマに惹かれるのです。

テレビアニメだと『重戦機エルガイム』(1984)。
アニメ映画だと『超時空要塞マクロス 愛おぼえていますか』(1984)。
OAVだと『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(1989)。
これらが、それぞれの一番。



リアルロボットもの以外で一番のアニメは『めぞん一刻』(1986.3.26~1988.3.2)。
テレビアニメ全体でも10本の指(あるいは5本の指)に入ります。

『めぞん一刻』は、ボロアパート【一刻館】の住人たちの物語。
主人公は浪人生(のち、三流大学学生→保父さん)の五代裕作
個性豊かな住人が集う(集ってしまった)一刻館に、ある日、若く美しいアパートの管理人さんがやって来ます。
管理人さんの名は、音無響子
五代は響子に一目惚れしてしまう。
しかし、響子には心に想う男性がいました。
亡き夫……。
音無響子は、若くして夫を亡くした未亡人でした。
夫との思い出に生きる響子に、五代は恋してしまったのです。
このときから、五代裕作の喜びともどかしさに満ちた新たな人生が始まるのです。




「一刻館」の住人


ダメ人間の五代裕作への共感や、一刻館の住人たちのさりげない優しい人間関係(おふざけが常軌を逸している場合もありますが)が心地良かった。

『めぞん一刻』は、わたしが中学3年と高校1年のときに本放送していました。
いじめなどで学校生活が最悪だった小学5年~中学3年。
生徒会副会長やクラス委員長もやり、人間関係など学校生活がもっとも充実していた高校1年~高校2年(大学受験の関係で高2の夏休み明けに中退してしまいましたが)。
二つの極端な時期に、『めぞん一刻』は放送していました。

この中学と高校の夏休み・冬休み・春休みの長期休暇のとき、わたしは、途中から毎週録画していた『めぞん一刻』を1日何話も観てどっぷりと浸かり、一刻館の住人の気分をあじわっていました。
中学のときは学校生活では満たされぬ「こうあって欲しい」理想をもとめ、高校のときは学校生活が順調だったため精神的にある程度の余裕をもって、一刻館の住人である「仮の現実」を堪能していました。




ダメ人間・五代裕作の成長


『めぞん一刻』には、いくつもの魅力的な要素があります。
今日(2019.5.7)、これも『めぞん一刻』の魅力の一つだったのかなと思い当たることがありました。

ほかの方のブログで『めぞん一刻』の記事をちょっと前に読んだ影響だと思うのですが、ふと思い浮かんだのは、主人公である五代裕作の成長の描写の加減の良さです。

五代の成長が、さりげない。
大仰ではない。

『めぞん一刻』のアニメは2年間でしたが、漫画のほうは1980~1987年のおよそ7年間の連載。
作中の歳月も、だいたい7年くらいだと思うのですが、ゆっくりゆっくり五代は成長していくのです。
それも、べつに徳のある大人とかではなく、「昔よりは落ち着いたよね」といった程度のさりげない成長です。
最後まで五代は基本的にダメ人間でした。
(五代役の二又一成(ふたまたいっせい)のダメ人間ぶりも、堂に入っているんですよね。
ダメ人間をやらせたら、日本の声優でも屈指の存在感だとおもう)
悩み多きダメ人間。
才能もほとんどなにもない。
優しい……けれど、ダメ人間。
しかし、ダメ人間なりに着実に前進はしている。


良きにつけ悪しきにつけ、人は変化しつづけるものなのでしょう。
「人の世は常ならず」なのです。