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『超時空要塞マクロス 愛おぼえていますか』……ゼントラーディ、キス(キースー)に理性崩壊!



超時空要塞マクロス


『超時空要塞マクロス 愛おぼえていますか』は、わたしにとって劇場版アニメNo1のみならず、実写もふくめた映画No1作品。
その『愛おぼえていますか』のゼントラーディ人は、人間の男女によるキスを目の当たりにしてパニックに陥っていました。
「大の大人がキスくらいで」とかつては珍妙に思っていましたが、果たしてそうなのでしょうか。




純情すぎな悪魔


路傍で、人間の男女の抱き合っている姿が彫刻された、膝ぐらいの高さの石を目にしたことはないでしょうか?
これは、道祖神(どうそじん)。
塞ノ神や幸ノ神(ともに「さいのかみ」「さえのかみ」)や道陸神(どうろくじん)などとも呼ばれる神様です。

道祖神は、村の境の路傍などにまつられている、悪魔など災いの侵入防止、子孫繁栄、旅の加護、交通の安全などを祈願するための村の守り神。
よく、村の入口などに、男女一対で石に彫られています。

悪魔はおそろしい存在です。
かつて、疫病(えきびょう)は悪魔や荒ぶる神が村にもたらす病気と思われていました。
疱瘡(ほうそう)や痘瘡(とうそう)と呼ばれていた天然痘(てんねんとう)などの疫病は、医学が未発達だった時代、村が全滅しかねない脅威でした。
たとえば、天然痘は致死率20~50%。
ヨーロッパだと、1347~1370年代までつづいたペスト(黒死病)で、ヨーロッパ全体の人口の三分の一~四分の一が犠牲になったといいます。
ヨーロッパ全体の人口を約1億とすると、およそ2500万人程度が亡くなった計算になります。
村の存続が不可能になりかねない、おそろしい数字です。

この疫病など災厄をもたらす悪魔が村に入ってこないよう、村の境界に、村の外に向けて建てられているのが道祖神の石像です。
外からの悪魔の侵入に目を光らせているわけです。

そのさいに、悪魔退治のために取られた手段の一つが、男女のあつ~い抱擁でした。
抱き合っている男女の像は、あつ~いラブシーンを見せつけて悪魔を退治するためです。
悪魔は、あまりの激しいラブシーンに、恥ずかしくなって逃げ出してしまうのです。
悪魔が?
熱い抱擁が恥ずかしくて逃げ出すって……純情すぎ……小学生?

ふと、そのことを思い出したとき、アニメに似たような事例があったなあと。
しばらく考えてみて、答えは出ました。
『超時空要塞マクロス』のセントラーディ人です。
とくに、劇場版の『超時空要塞マクロス 愛おぼえていますか』のゼントラーディ人はTV版を超えるオーバーリアクションでした……。




『超時空要塞マクロス 愛おぼえていますか』


『超時空要塞マクロス 愛おぼえていますか』(1984)

大宇宙を舞台に50万年の永きにわたり、巨人族は戦争を繰り広げていた。
男と女に分かれ、いつ終えるとも知れない戦いに明け暮れていた。
男のみで構成された巨人族「ゼントラーディ」。
女のみで構成された巨人族「メルトランディ」。

その二大種族の、いつ果てるとも知れない戦いは、西暦2009年、ついに地球に及ぶ。
圧倒的なゼントラーディの戦力の前に、地球人類は瞬時にしてほぼ壊滅。

そんななか、全長1200mを超える地球統合軍の巨大宇宙戦艦「SDF-1 マクロス」は、ゼントラーディの地球攻撃のさい、脱出時のフォールドの手違いで地球から太陽系外周部に飛ばされてしまう。
「SDF-1 マクロス」は、生き残った5万8千人の民間人と軍人を収容し、巨人族の追跡をしりぞけながら、長く苦しい地球への帰還の旅をつづけていた。




ゼントラーディ、男女が一緒にいて驚愕!


巨人たちは、身長およそ10m。

巨人族は男女に分かれて戦争をしていますので、男女の交流がまったくありません。
巨人の誕生も、男女の性交によるのではなく、高度な遺伝子工学によるクローン技術によって「製造」されるのです。

そんな巨人たちにとって、男女がともに生活しているのは驚愕以外のなにものでもありません。
男女という自分たちにとっては戦う相手同士が、手に手を携えあって生きているのですから。

巨人族の男性種族であるゼントラーディ人の驚愕のさまを、ゼントラーディ語で紹介します。
ちなみにゼントラーディ語は、『THIS IS ANIMATION ザ★セレクト11 劇場版 超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』(小学館)を参照しました。

ゼントラーディの戦闘メカ・ヌージャデルガーの一部隊が「SDF-1 マクロス」の防御網を突破し、内部に侵入したときのことです。
艦内には、自分たちに驚き逃げる男女の姿が。
男と女が手を握り自分たちから逃げていく映像が、ヌージャデルガーのコクピットのモニターに映し出されていました。


巨人A(コンダ88333):「ヤット!?」(これは!?)「ゼントラン テ……メルトラン」(男と女だ……) 
巨人B(ロリー28356):「ゼントラン テ メルトラン!?」(男と女!?)
巨人A(コンダ88333):「ゼントラン テ メルトラン タルケ ダカン!」(男と女が同じ場所にいるぞ!)
巨人C(ワレラ25258):「ヤック!」(なんだと……)「ヤック デ カルチャ」(こんな恐ろしいことが……)


そして、巨人たちは狂乱。
戦うことしか知らない、人を殺すことをなんとも思わない悪魔のような身長10mの巨人たちは、男女がともにいるだけで発狂してしまいました。
わたしは、幼稚園児のころにはすでに、かなり長いあいだ女の子と一緒にいましたけどね……それがなにか?




ゼントラーディ、ミンメイの歌に熱狂!(こういうのを熱狂とは言わない)


巨人たちは戦争ばかりで文化を知りません。
歌も知りません。
ラブソングも、もちろん。
だいたいにおいて、ラブを知りません。
巨人たちに恋愛はないのですから。

その巨人たちが、歌を初めて聴くとどうなるのか?
それを描いている一場面があります。

巨人たちの戦艦のなか。
「SDF-1 マクロス」から持ち帰ったミンメイ人形を、複数の巨人たちが取り囲んでいます。
ミンメイ人形は、アイドルのリン・ミンメイをかたどった小さな人形。
スモールサイズの人形とはいえ、まったく免疫のない女性をかたどったミンメイ人形に巨人たちは戦々恐々。
腰が引け、恐怖で震える手に銃を構えながら恐る恐る近づく。
このミンメイ人形、どこか(画面から判断すると頭か腰?)を押すと、踊り出してミンメイのデビュー曲「私の彼はパイロット」を歌いはじめます。
そのどこかを偶然、一人の巨人が、銃の先端で押してしまいました。


巨人A:「マーカマイクラン オ マイクラン」(マイクローンのマイクローンなのか?)
巨人B:「ウテマ、ウテマ」(待て、待て)
巨人C:「ウケスタ! ウケスタ! デ ウケイ! デ ウケイ!」(動いた! 退避!)
巨人A:「ヤック! ウダナ デ カルチャ」(なんだ、これは!)
巨人D:「ガドラザーン」(音波兵器だ)
巨人E:「デ カルチャ ザーン!」(なんて音なんだ!)


戦争しか知らない巨人たちにとって、歌は未知なる音波兵器。
「なんだ、これは!」、驚愕されているそれこそが、地球人にとってはありふれたお馴染みの文化「歌」なのでした。




ゼントラーディ、キス(キースー)に理性崩壊!


一条輝、リン・ミンメイ、早瀬未沙、ロイ・フォッカー、リン・カイフンたちは、作品中盤、ゼントラーディに捕まってしまいました。
身長10mの二人の巨人(艦隊司令官のブリタイ7018とその参謀のエキセドル4970)に囲まれて尋問されます。
ちなみに、巨人たちのゼントラーディ語は地球語に翻訳されています。


エキセドル4970(巨人):「男と女が協力? ヤックデカルチャー」
ブリタイ7018(巨人):「何故、戦わん?」
ロイ・フォッカー:「戦う? 冗談じゃない、女は喧嘩するよりも抱くほうがいいに決まってるだろうが」
ブリタイ7018(巨人):「ダークー? ダークーとはなんだ?」
ロイ・フォッカー:「こういうことさ」
【どさくさにまぎれ、ロイ・フォッカーはリン・ミンメイを抱き寄せる】
それを目にして巨人たちは、大驚愕。
ブリタイ7018(巨人):「お前たちは、男と女でそんなデカルチャーなことをしているのか?」
【デカルチャーとはゼントラーディ語で、「信じられない」「理解しがたい」ということ】
ロイ・フォッカー:「ああ、キスだってなんだってしてる」
ブリタイ7018(巨人):「キースー? キースーというものをしてみろ」
【大胆不敵なロイ・フォッカーとはいえ、恋人でもないミンメイにさすがにそれはできない。
ちゅうちょしていると、巨人たちはさらに「キースー」というものをしてみろと強要。
殺されるかもしれない危機感から、ミンメイの兄であるカイフンは、演技で妹のミンメイと口づけをする。
それは、巨人たちが目にする初めてのキスだった……】
エキセドル4970(巨人):「はーあああああ! はーあああああ!」
ブリタイ7018(巨人):「うおおおお! キースー! おおおおお!」


とまあ、かなりいい歳をした二人の巨人は「キースー」を目にして恐慌をきたしてしまいました。
キスって、初めて目にしたのはいつでしょう?
思い出せないくらい昔に、アニメか漫画かなにかで目にしたのが最初でしょうかね?
たしかに、あれは摩訶不思議な……なにやらモヤモヤするものではあったでしょうが、さすがにブリタイやエキセドルのように理性が崩壊することはありませんでした。

ちなみに、このシーンで、個人的にちょっと驚くことがありました。
公開年の1984年以来、リン・カイフンはリン・ミンメイの従兄妹(いとこ)だと思っていました。
TV版『マクロス』ではそうでしたから。
しかし、今日(2019.6.29)、ネットで調べていたら「劇場版では、カイフンはミンメイの実兄に変更」とのこと。
複数のサイトに、そのことが記されています。
実兄?……ということは、演技とはいえ、ミンメイとカイフンは実の兄妹で口づけをしたことになります。
……ううむ、いいのか?




『超時空要塞マクロス 愛おぼえていますか』が描いた「文化」


文化はさまざまです。
新婚初夜の様子を親戚たちが確認するという習慣は、各地に存在します。
夫婦としての夜の営みの最初が、衆人環視のなかでおこなわれるわけです。
それにより、新婦が処女であり生まれてくる子供が新郎の子供であることを確認したり、新郎に生殖能力があることを確認したりするわけです。
他家の男の血を自分の家に入れるわけにはいきませんし、新郎に生殖能力がなければ家系が断絶する危険すらあります。
それを回避するには、「確認」が必要になるわけです。

この初夜の儀式は、ヨーロッパ史の本を読んでいると、けっこう頻繁に目にします。
わたしの少ない読書量でもしばしば目に触れるのですから、貴族階級では当たり前のようにおこなわれていたのではないでしょうか。
貴族は血を後世に残すことが、その大きな務めの一つですから。

日本では、徳川将軍は毎夜毎夜、女官二人の同席のなかで行為に及び、そのことが翌朝、女官から所定の上役に報告されます。
この場合、女官二人は将軍とその側室(正室との行為時にはこの習慣はなし)に背を向け、挟みこむように左右に添い寝をし、見るのではなく声や音を聴くのです。
寝物語に、将軍に身内の栄達や願い事をするのを防ぐのが目的でした。

わたしは寡聞にして知りませんが、庶民階級でも地域によっては当たり前のように初夜の監視はおこなわれていたのではないでしょうか。
いまも、日本の旧家の一部にはこの風習が残っていて、そのため「将来が不安」という女の子からの相談が寄せられたネットの事例もありました。
子孫繁栄、血統の保持は、庶民・貴族にかかわらず一族にとり重要なことなので、世界の各地にそのような因習があってもべつに不思議ではないでしょう。

しかし、我々の感覚からすると、ぞっとしますよね?
顔見知りの自分の親戚、良くは知らない相手方の親戚の注視するなかで、ことに及ぶわけですから。
しかし、時代や地域によっては、これが当然の場合もあるわけです。
文化の多様性というのは、そういうことでしょう。

ならば、キス(キースー)に恐れおののく文化が宇宙のどこかにあっても、別段、不思議ではない……のかもしれません。
もちろん、キスをしていて、そばにいた見知らぬ誰かがいきなり狂乱状態になったら、こちらは尋常でなく驚くでしょうけど。




『超時空要塞マクロス 愛おぼえていますか』の「カールチューン」


文化相対主義というものがあります。
自分の文化の価値観を絶対視し、それとは違う他者の文化を軽んじてはならないという観念です。
差別やいじめを減らすため、誤解から起きる戦争を防ぐためなどに、ことのほか重要とされる概念。
文化は多種多様、ゆえに自分の文化も冷静に相対化しましょうということ。
自己の文化を絶対的に良いものと短絡的に考えず、自身にとっては異質であっても他者の文化に理解を示しましょうということです。
たとえば、これができなかった一例がナチスでした。

もしかしたら『マクロス』のスタッフは、文化相対主義、あるいはそれに類似した観念を念頭に置いてゼントラーディ人を造形したのかもしれません。
監督の河森正治(かわもり しょうじ)は、『愛おぼえていますか』の自身のテーマを「生まれも育ちもちがう複数の人物が、その差をこえて、ひとつになり得るか」(『おぼえていますか』語り手/河森正治 アニメージュ文庫)と述べています。
それは、文化相対主義にきわめて近い考えのように思うのですが、いかがでしょう。
「キースー」にウブすぎる異星人の「カールチューン」(カルチャー)を理解するのも、宇宙平和のためには大切なことなのかもしれません。

(『超時空要塞マクロス』最終回(1983.6.26)のほぼ36年後の日曜日に)

『巨神ゴーグ』(1984)…… 「異星人文明の発掘」と「神々のいびき……地鳴り」(&茨城県古河市 新三国橋)



巨神ゴーグ


人里離れた建設現場や発掘現場に出くわすと、『巨神ゴーグ』(1984)のことを思い出します。



『巨神ゴーグ』は安彦良和作品。
企画、原作、監督、作画監督、キャラクターデザイン、ロボットデザイン、絵コンテ、作画監督の主要な役職を安彦良和一人で手がけています。

安彦良和の主な業績は以下の通り。
『クラッシャージョウ』『アリオン』『ヴイナス戦記』などアニメ作品の監督(前二作品はキャラクターデザイン・作画監督も。後二作品は原作も)。
『勇者ライディーン』『超電磁ロボ コン・バトラーV』『機動戦士ガンダム』『劇場版 機動戦士ガンダム』『無敵超人ザンボット3』『機動戦士Zガンダム』『機動戦士F91』などのキャラクターデザイン(前四作品は作画監督も)。
漫画家としても、『アリオン』『クルドの星』『ヴイナス戦記』『ナムジ』『虹色のトロツキー』『神武』『韃靼タイフーン』『機動戦士ガンダム THE ORIGINE』『天の血脈』『ヤマトタケル』など歴史・ファンタジー・SFを題材にした作品を多数、ものしています。



『巨神ゴーグ』
13歳の少年・田神悠宇(たがみゆう)は、亡き父が研究していた秘密を追って、南太平洋に浮かぶオウストラル島へ。
同行するは、14歳の女の子ドリス・ウェイブと、その兄で悠宇の父の弟子トム・ウェイブたち。
そこは、【あるもの】を探しもとめる世界的コングロマリットGAIL(ガイル)に支配されていた。
【あるもの】の秘密に近づこうとする悠宇たちを抹殺しようとするGAILの私設軍隊。
そんななか、優しい目をした青い巨神……ロボットの「ゴーグ」に出会う。
この出会いは、3万年の秘密を呼び覚ますことになる……。




秘密が眠るオウストラル島


オウストラル島は、南太平洋、サモア諸島東南2000キロに浮かぶ島。
旧島と新島があり、旧島は古来より連綿と存在、新島は3万年前に海の底にもぐったものが近年再浮上した島。
この広大な新島の各所で、【あるもの】を目当てにGAILが発掘を繰りひろげています。
新島は近年まで海底に沈んでいたため無人の島であり、ジャングルや山裾や渓谷や河畔で採掘作業に従事している作業員と、それを護衛する私設軍隊の傭兵の、GAILに雇われたものたちだけがほぼ人のすべて。
ほぼ……。
ですから、作業現場はさびしい。
(例外は、GAILに敵対する悠宇やドリスたちと……)
作業員と傭兵の数は相当な数にのぼるとはいえ、相手は広壮な自然界。
大自然に呑みこまれそうななか、作業員たちがほそぼそと発掘作業に従事しています。
世界の片すみで働いているかのような寂寞(せきばく)とした雰囲気に、そこは満ちていました。




悠久の大自然、寂しい工事現場


35年前(1984年)のこの印象があまりに強烈で、いまだに人家や人気(ひとけ)が周囲にない工事現場を目にすると『ゴーグ』を思い出します。

90年代、2000年代、わたしは記憶の障害をわずらい、その療養もかねて自転車(普通自転車)でさまざまな場所へ行き来していました。
往復25~30kmの距離だと、近場という感覚しかありませんでした。
最大だと往復120kmくらい。
そのため、いくつもの工事現場を目にしてきました。

たとえば、茨城県古河市の新三国橋(しんみくにばし)の工事現場。
2000年に開通した全長2500m、そのうちアーチ部685mの大きな橋。
渡良瀬川をまたぎ、埼玉県加須市と茨城県古河市をつないでいます。

いまや、交通のかなめになった新三国橋の周辺は、古河総合公園が拡大整備されたり、店舗が建ち並んだり、住宅街も整備されたり、にぎやかなものになっています。
新たに出現した小さな都市といっていいでしょうか。

しかし、90年代後半のころは、その周辺に大河である渡良瀬川を渡河する大きな橋がないため人の往来はまばらでした。
平日の日中などは、河川敷にも堤防にも人がいない。
じつに寂しい場所でした。
世界の隅っこのような印象。
ここに、渡良瀬川にかかる巨大な橋を建設する、規模の大きな建築現場がありました。
ですが、周囲のうら寂しさゆえに、そのなかにぽつりとあらわれた巨大建設現場は、渡良瀬川の悠久の大自然のなかで孤立して、うそ寒くなるくらいに生気がありませんでした。

建設作業員の方たちには申し訳ないのですが、まるで建設中の橋ごと幽霊であるかのような、幻影であるかのような、蜃気楼であるかのような現実感のなさ。
わたしが自転車でやってきたよそ者で、地理不案内のため、疲労と疎外感でそのようなおもいがつのっていたのかもしれませんが、明日また訪れたなら、建築現場はそこにはまったく存在せず、夢幻と消えていたとしても不思議ではない、そんな「うつろ」さがありました。

悠宇やドリスたちの目にも、オウストラル島の発掘現場はこのように見えていたのでしょうか。
ただ、悠宇たちはGAILに生命を狙われていて、ただたんに堤防の上から川のなかの工事現場をながめていただけのわたしとは緊迫感がまったく違いますが。




目的は異星人


GAILの発掘作業がなにを目的にしているのか、それは物語の終盤まであきらかになりません。
ただ、ヒントはゴーグにあります。
悠宇とともに戦うゴーグは、言葉はしゃべりませんがみずからの意思で戦い、かつ、地球の現有兵器ではまったく歯がたちません。
ゴーグは、ロボット。
全高13.5mの青い巨人。
戦車や戦闘ヘリコプターを擁するGAILの軍隊は敵側ですが、気の毒になるくらいゴーグにたちうちできません。
ゴーグは基本的に素手で戦い、そこいらに転がっている巨岩や生えている巨木を投げたり振り回したりするだけで、飛び道具はもっていないのに。
これは、地球のテクノロジーとはちがう、はるかに進んだ「なにか」により産みだされたものであろうことは明白です。

しかし、謎のヴェールはちょっとずつちょっとずつ剥がれていきます。
そして明らかになったのは。
……異星人でした。
故郷をうしない、3万年の太古に、地球に漂着した異星人が降り立ったところがオウストラル新島でした。

GAILは、その卓越した異星人文明の独占をはかっていたのです。
発掘は、異星人文明の獲得をめざしたものだったのです。



地鳴り……届けられた「神々のいびき」


物語の初期のころから、オウストラル島全体に正体不明のくぐもった神秘的な地鳴りがときどき鳴り響いていました。
この地鳴りは、オウストラル新島奥深い火山の洞窟のなかから響いてくるものでした。
この洞窟のなかで「異星人」たちは3万年の眠りに就いていたのです。

地鳴りには、雷=「神」鳴りのように、霊妙な存在を推知させる意図が安彦監督にはあったのかもしれません。
安彦監督は、そのような神話や伝説に造詣(ぞうけい)の深い方です。
じっさい、地鳴りは「神」とまがう超テクノロジーをもった異星人たちの眠る「宮殿」から発せられたものでした。

わたしは、遠方からとどく雷鳴や不可思議な物音を耳にしたときも『ゴーグ』のことを思い出すことがあります。
そして、その源にはなにか得体の知れぬものが存在しているのではないかと、一瞬、錯覚するのです。



80年代の土曜のアニメ……土曜の放課後は安心とともに



土曜の午後は天国


かつて、土曜の午後は天国でした。
学校から、もっとも遠いので。

いまとちがい、公立の学校でも土曜は午前中だけ授業がありました。
それが終われば、土曜の午後から月曜まで学校に行かなくていい。

小学5年~中学3年まで、いじめやらなにやら最悪の学校生活をおくっていたわたしには、土曜の放課後が一週間のなかでもっとも安らげるひと時でした。
家に帰り、二階の自室に行くまえに一階の茶の間でカバンと制帽を放り出しへたるようにそこに座ると、どっと一週間の疲れが体内からあふれだす。
一週間の緊張がとけて、ほっ、と深ーい深ーい安堵の念にみたされる。

高校のときは学校生活が充実していて、それでも土曜に帰宅すると緊張がすっと抜けていくように心が安らぐのをおぼえましたが、こちらは責任感から解放されたからかもしれません。
高校のときは、生徒会副会長、クラス委員長、そして偏差値40前半の学校でしたが学年トップでしたので、そこから解放され、ちょっと一安心していたのかもしれません。




土曜のアニメたち


そのころ、土曜夕方5:30は富野アニメとその後継者であるサンライズアニメが定番でした。
小学6年の9月24日、『聖戦士ダンバイン』(1983~84)を観はじめて以来のことです。
『重戦機エルガイム』(1984~85)『機動戦士Zガンダム』(1985~86)『機動戦士ガンダムZZ』(1986~87)とつづいて富野アニメはひとまず終了、ついで神田武幸監督の『機甲戦記ドラグナー』(1987~88)、そのあとちょっと飛んで池田成監督・浜津守監督の『鎧伝サムライトルーパー』(1988~89)、鹿島典夫監督の『獣神ライガー』(1989~90)へとつづきます。
1989年には、1984年以来、2台つづけてビデオデッキβ専門だったわたしははじめてVHSデッキを購入、やっとレンタルビデオでソフトを借りられるようになり、わたしのなかでOAVの大ブームに。
そのため、あまりTVアニメを観なくなり、『獣神ライガー』は途中から観なくなりました。

ほかの時間帯だと、『パタリロ!』(1982~83)(夜の7:30。放送曜日は木→土→金と変遷)や『聖闘士星矢』(1986~89)(夜7:00)など思い出深い作品がありました。

土曜は心安らかにアニメを鑑賞できましたね。


セーリング・フライ(『伝説巨神イデオン 接触編/発動編』主題歌)……ばら色の唇が 君をまよわせて



『伝説巨神イデオン 接触編/発動編』


伝説巨神イデオン』劇場版(1982)。
地球人は、はるかかなたの移民先の惑星・ソロ星で太古の第六文明人の遺跡を発見する。
かたや、異星人バッフ・クランも無限エネルギー【イデ】の鍵となる第六文明人の遺跡を探索していた。
不幸な出会いから、地球とバッフ・クランは戦争状態へと。
こうして、スペース・オッデセイの幕が開く。
この戦争は、全人類の運命を巻き込んでいく。
戦いが進むにつれ、明らかになる【イデ】の正体。
第六文明人の無限エネルギー【イデ】は、地球/バッフ・クラン双方にとって、掘り起こしてはならない禁断の存在だった。




セーリング・フライ(歌:水原明子 作詞:井荻麟(富野喜幸))


その主題歌「セーリング・フライ」。
アニメソングのなかでも、わたし的には5本の指に入るであろう大好きな曲です。
(作品そのものも、劇場アニメで10本の指に入る大好きな作品)

歌うは水原明子さん。
澄んで透明な歌声にうっとり。

作詞は富野監督。
富野監督は井荻麟(いおぎりん)名義で、数多くの富野作品楽曲の作詞を手がけています。

井荻麟の特徴としては「美は乱調にあり」といったところでしょうか。
よく考えると、意味のわからないところが多々ある。
それまでの歌詞と関係のない内容が、いきなり、ぽんと出てくる。
論理的ではない。
しかし、それが情熱的といいましょうか。
理性にではなく、本能にうったえかけるのです。

それに、言葉に、心に突き刺さるものがあります。



『イデオン』劇場版を鑑賞したのは大人になってからですが、「セーリング・フライ」は公開当時かそれからさほど年月を経ていない時分、ラジオのアニメ番組で流れた曲を録音して何度も聴きました。
小学5、6年のころです。

以下、歌詞の一番を抜粋します。
(『ロマンアルバム・エクストラ51 伝説巨神イデオン THE MOTION PICTURE』徳間書店より)



あこがれだけに まどわされたり
つらさのがれの 逃げ道にして
行ってはいけない メフィストのくに
ばら色の唇が 君をまよわせて
flying now flying now
なにも思わず 心ふさいで
生まれでる 君ならば
忍び恋のように スペース・ランナウェイ
スペース・ランナウェイ
月と星の間(なか)を スペース・ランナウェイ
セーリング・フライ
忍び恋のように スペース・ランナウェイ
スペース・ランナウェイ
月と星の間(なか)を スペース・ランナウェイ
セーリング・フライ

セーリング・フライ セーリング・フライ
セーリング・フライ セーリング・フライ
セーリング・フライ セーリング・フライ




行ってはいけないメフィストの国


「行ってはいけないメフィストの国」ってなんでしょうね?
メフィスト・フェレスは、16世紀ドイツのファウスト伝説に登場する悪魔。
メフィスト・フェレスは欲望をかなえてくれます。
しかし、死後、その代償として魂を奪われてしまう。
魂が悪魔に隷属することになる。
そうまでして、欲望をかなえたい人間のあさましさと哀しさを伝えるのが、ファウスト伝説です。
この伝説をもとに大詩人ゲーテがものした戯曲『ファウスト』では、誘惑の悪魔としてメフィスト・フェレスは登場します。

(ちなみに、ファウストはメフィスト・フェレスと契約して地上のあらゆる知識と快楽を手に入れた錬金術師。
ゲーテのファウストは、博士。
伝説では、ファウストは破滅。
ゲーテ作品では、ファウストが努力家であり、かつ、天上にいるかつての恋人の純粋な愛の祈りなどにより、破滅から救済されます)

たしかに『イデオン』は、観客ターゲットを年齢高めに設定しているのでしょうが、子供に「メフィスト」はわからないですよね。
大人でも、ある程度の歴史的/文学的素養がないとわからない。
しかし、文学好きの富野監督は、「メフィスト」を歌詞のなかにいれたかったのでしょう。
欲望のおもむくまま憧れを不正にかなえたり、つらさ逃れの安逸をむさぼったりすることを富野監督はいましめたかったのかもしれません。
富野監督には、説教癖がありますからね。
子供のころは不思議な……それこそ呪文のような言葉の響きが「メフィスト」にはありました。




ばら色の唇が 君をまよわせて


そして、「ばら色の唇が 君をまよわせて」。
ここです。
ここが、富野ロマンの真髄です。

恋愛結婚ではない富野監督。
著書『「ガンダム」の家族論』のなかで、「あんまり好きなタイプじゃなかったんだよね」と奥さんに恋愛めいた感情をいだいたことはないというようなことを述べているので、この部分はだれかほかの女性を念頭に置いているのでしょうか。
……片想いの記憶でしょうかね。
どうも、富野監督に両想いのイメージが湧かないので(ひどい……)。

ばら色の唇……たしかに、あれには惑わされます。
まあ、本能的なものですよね。
理性が介在する間もなく、コロリといってしまう。
で、もてない人間は、なやむはめになるわけです。
煩悩。
懊悩。
というやつです。
ふられるのがイヤで告白できない。
しかし、想いを遂げたい。
でも、どうすることもできない。
好きになった女性のばら色の唇は、わたしには魔術でした。

わたしは共感をもって、小学・中学のころからいまにいたるまで、「ばら色の唇が 君をまよわせて」を時々口ずさみます。
すると、若いころのもやもやした感情がよみがえります。
すべての歌のなかでも、もっとも恋愛について心に突き刺さる一節が、「ばら色の唇が 君をまよわせて」かもしれません。

もてない富野監督だからこそ(勝手に決めつけて、すみません。しかし、そうとしか……)、考えつくことのできたフレーズなのかもしれません。
憧憬の念が、その願望をかなえたいという夢想を生み、その夢想がロマンチシズムの土壌になる。
手に入れることのできないあこがれは、ロマンを生む源泉なのかもしれません。
(なに言っているんだ、オレ?)




なにも思わず 心ふさいで 生まれでる 君ならば


なにも思わず 心ふさいで 生まれでる 君ならば
えっと……なんです、これ?
大人になっても、いまだに、ここは意味がわかりません。
自閉症的で心をふさいでいると他人から良く言われるらしい、富野監督自身のことでしょうかね?
冗談はさておき。
前後が恋についての言及なので、恋に臆病であることをあらわしているのでしょうか。
直後に、「忍び恋のように」ですから。
好きであることを打ち明けられない心情を歌っているのでしょうか。
ただ、意味はわからなくても、語感はいいなあとおもいます。
理性よりも感覚、それも富野監督の真骨頂でしょうかね?




忍び恋のように


忍び恋のように」、ここはサビの部分ですね。
忍ぶ恋の多そうな、富野監督の感情のこもったフレーズ。
わたしも共感。
「ばら色の唇が 君をまよわせて」に次ぐ、よく口ずさむフレーズです。




『伝説巨神イデオン 接触編/発動編』と『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを君に』


この主題歌「セーリング・フライ」は、劇場版二部構成(『接触編』と『発動編』)のうちの前半部分『接触編』の最後に流れます。
スタッフのクレジットも、いっしょに『接触編』のラスト。
普通は全体のラストにクレジットですが、『発動編』のラストにクレジットはありません。
物語のほぼ真ん中で、主題歌とともにクレジットを流すという珍しい構成です。

(ちなみに、この方式を踏襲したのが、旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを君に』(1997)です。
庵野監督は、『イデオン』の信奉者。
『ガンダム』よりも『イデオン』の人。
その庵野監督が、『Air』と『まごころを君に』二部構成のうち、前半部分の『Air』のラストで主題歌「タナトス」を流し、同時にスタッフ・クレジットを流しました。
劇場で観ていたわたしは、それに気づいたとき、庵野監督のあこがれの劇場版『イデオン』へのオマージュに暗闇でニヤリ、ちょっと嬉しくなりました)




主題歌「セーリング・フライ」のあとに……


この「セーリング・フライ」……『接触編』が終わると『発動編』。
『発動編』はアニメ史上まれに見るくらいの、主要キャラクターが次々に戦死していく物語。
『発動編』冒頭の2、3分で、『イデオン』でも男女それぞれで一番人気かもしれない美少女/美男子のキッチ・キッチンギジェ・ザラルが立て続けに戦死します(キッチ・キッチンは人気の美少女キャラですが、両想いの主人公ユウキ・コスモの見ている前で、戦闘の爆撃に巻き込まれ、首を吹き飛ばされて亡くなります)。
「セーリング・フライ」は、意図はしていなかったでしょうが、結果的に人々の死を先導するような役割をになってしまいました。




セーリング・フライ


片想い中の人には、とくに心にしみる一曲。
片想いの達人(かもしれない)富野監督作詞の「セーリング・フライ」はいかがでしょうか。



『めぞん一刻』……「一刻館」の住人になったつもりで



めぞん一刻


わたしは、リアルロボットアニメが好きです。
アニメでは、上位をリアルロボットものがほぼ独占しています。
生き死にのかかった状況下、人々が見せる人間ドラマに惹かれるのです。

テレビアニメだと『重戦機エルガイム』(1984)。
アニメ映画だと『超時空要塞マクロス 愛おぼえていますか』(1984)。
OAVだと『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(1989)。
これらが、それぞれの一番。



リアルロボットもの以外で一番のアニメは『めぞん一刻』(1986.3.26~1988.3.2)。
テレビアニメ全体でも10本の指(あるいは5本の指)に入ります。

『めぞん一刻』は、ボロアパート【一刻館】の住人たちの物語。
主人公は浪人生(のち、三流大学学生→保父さん)の五代裕作
個性豊かな住人が集う(集ってしまった)一刻館に、ある日、若く美しいアパートの管理人さんがやって来ます。
管理人さんの名は、音無響子
五代は響子に一目惚れしてしまう。
しかし、響子には心に想う男性がいました。
亡き夫……。
音無響子は、若くして夫を亡くした未亡人でした。
夫との思い出に生きる響子に、五代は恋してしまったのです。
このときから、五代裕作の喜びともどかしさに満ちた新たな人生が始まるのです。




「一刻館」の住人


ダメ人間の五代裕作への共感や、一刻館の住人たちのさりげない優しい人間関係(おふざけが常軌を逸している場合もありますが)が心地良かった。

『めぞん一刻』は、わたしが中学3年と高校1年のときに本放送していました。
いじめなどで学校生活が最悪だった小学5年~中学3年。
生徒会副会長やクラス委員長もやり、人間関係など学校生活がもっとも充実していた高校1年~高校2年(大学受験の関係で高2の夏休み明けに中退してしまいましたが)。
二つの極端な時期に、『めぞん一刻』は放送していました。

この中学と高校の夏休み・冬休み・春休みの長期休暇のとき、わたしは、途中から毎週録画していた『めぞん一刻』を1日何話も観てどっぷりと浸かり、一刻館の住人の気分をあじわっていました。
中学のときは学校生活では満たされぬ「こうあって欲しい」理想をもとめ、高校のときは学校生活が順調だったため精神的にある程度の余裕をもって、一刻館の住人である「仮の現実」を堪能していました。




ダメ人間・五代裕作の成長


『めぞん一刻』には、いくつもの魅力的な要素があります。
今日(2019.5.7)、これも『めぞん一刻』の魅力の一つだったのかなと思い当たることがありました。

ほかの方のブログで『めぞん一刻』の記事をちょっと前に読んだ影響だと思うのですが、ふと思い浮かんだのは、主人公である五代裕作の成長の描写の加減の良さです。

五代の成長が、さりげない。
大仰ではない。

『めぞん一刻』のアニメは2年間でしたが、漫画のほうは1980~1987年のおよそ7年間の連載。
作中の歳月も、だいたい7年くらいだと思うのですが、ゆっくりゆっくり五代は成長していくのです。
それも、べつに徳のある大人とかではなく、「昔よりは落ち着いたよね」といった程度のさりげない成長です。
最後まで五代は基本的にダメ人間でした。
(五代役の二又一成(ふたまたいっせい)のダメ人間ぶりも、堂に入っているんですよね。
ダメ人間をやらせたら、日本の声優でも屈指の存在感だとおもう)
悩み多きダメ人間。
才能もほとんどなにもない。
優しい……けれど、ダメ人間。
しかし、ダメ人間なりに着実に前進はしている。


良きにつけ悪しきにつけ、人は変化しつづけるものなのでしょう。
「人の世は常ならず」なのです。