FC2ブログ

Contents

タルコフスキー……ライ麦畑じゃなくても眠らせて!(『ストーカー』(1979))


アンドレイ・タルコフスキー

眠くなる映画があります。
つまらなくて眠たくなる映画もあれば、できはいいのですが眠りたくなる映画も。

たとえば、わたしにとってアンドレイ・タルコフスキー(1932-1986、ソ連→84 亡命)は後者。
「映像の詩人」と呼ばれ、その味わい深い叙情的な自然描写で知られるタルコフスキー。
深い精神性を探求、魂の救済を追求した哲学的にして難解なタルコフスキー映画。
代表作は、『ぼくの村は戦場だった』(1962)、『惑星ソラリス』(1972)、『鏡』(1975)、『ストーカー』(1979)、『ノスタルジア』(1983)、『サクリファイス』(1986)など。




眠りたい……胎内の胎児のごとく

タルコフスキーは、観る者を眠りへと誘う監督としても有名です。
というより、映画の専門家やよほどのマニアでないかぎり、「眠らせてくれる」監督としてタルコフスキーは著名なのではないでしょうか。

冗長ともいわれる、やたら長いスローテンポなシーンが多用され、たとえば、薄暗い部屋のなかの雨漏りしている壁がえんえんと映し出されたり、走るトロッコの証明に照らし出された漆黒の地下トンネルが際限なく描出されたり。

また、セリフはほとんどなく、あったとしてもぶつぶつぶつぶつ暗闇のなかでささやきあう。
ゆっくりとした、そして生気のない口調でぶつぶつと。
また、そのさいには会話をしている人間の顔ではなく、暗い陰鬱な部屋の壁などにカメラは固定されています。

そして、タルコフスキーは水が好き。
水の音も好き。
ぴちょぴちょ、しとしと、ちょろちょろ、ぴちょんぴちょん、さびしい水の音が聴覚を独占し、壁や窓を雨水などが憂うつにしたたっています。

なんといいましょうか、その暗く静かな世界は、わたしには子宮と産道に思えるのです。
胎児がこの世にあらわれ出るときまで安住していた子宮。
この世に生まれいずるときに通る産道。
タルコフスキーがこだわる水のイメージは羊水でしょうか?

そして視聴者や観客は、一人の胎児となって眠りに落ちていく。
安心で安全な子宮と産道に眠る胎児として。

(後記:雨音は胎児が耳にする胎内音に近いという説があるそうです。
    水の音がタルコフスキーの「睡魔」の原因の一つなのかもしれませんね)




こりゃ、よく眠れる、『ストーカー』

とくに『ストーカー』(1979)は、わたしのなかで『2001年宇宙の旅』(1968)とならぶ気持ちよく「堕とされた」映画の双璧です。

この『ストーカー』、SF映画ということになっていますが特殊効果もなく、異星人との戦闘があるわけでもない。
ただ、隕石が墜落した(らしいという噂のある)地域(「ゾーン」と命名)が政府によって立ち入り禁止にされ、侵入者は銃殺されるといいます。
この隕石落下地域「ゾーン」には、なんでも願いがかなうという「部屋」が存在すると噂され、願いをかなえてもらうために命がけで「ゾーン」への侵入を主人公たちはこころみます。

『ストーカー』は、なんでも願いがかなう力をもつ存在への接触をこころみる物語ですので、神(あるいは神のような高次元の存在)をテーマにした作品です。
『スターウォーズ』のような娯楽SFではなく、神(のような存在)とのコンタクトを描いた『2001年宇宙の旅』のような哲学的映画です。
魂の救済を描いています。

テーマがそのように神学的であるため、それだけでも難解なのですが、さらに長回しが多いタルコフスキー作品の中でもとくに長回しが多いとされていて、たとえば、とめどなく暗闇のなかで男たちがぼそぼそ話し合っているといったように眠気を誘う要素に事欠きません。

そのなかでも、わたしが「堕とされた」のは地下トンネルのシーンでした。
(おそらく。
眠ってしまったので正確なことはおぼろなのです)

1985、86年のころ。
学校生活に精神的にくたくたになっていた中学生のときのことです。
深夜の映画番組で放送された『ストーカー』をビデオテープにタイマー録画していたものを、学校から帰ってきて観ていたときのことでした。

発見されたら銃殺されるなか、秘密の地下トンネルを小型のトロッコで進み「ゾーン」侵入をくわだてる「作家」「科学者」「ストーカー(密猟者という意味、作中では「ゾーン」への案内人のこと)」の男3人。
それまでさんざん「ゾーン」潜入にたいし賛成だ反対だのひそひそ話を暗闇でたっぷりされたうえで、やっと「ゾーン」へ向かいます。
そしたら、今度は、トロッコの照明にだけ照らされた狭い地下トンネルをいつ終わるともなく前へ、前へ……。

主人公たちは身動きの取れない小さなトロッコに男3人、自由に動くこともできず胎児状態。
映像はトロッコの前方照明以外は、地下の闇、闇、闇……また闇……まるで産道のような闇。

産道を進む赤子のように……いや、「ゾーン」にはなんでも願いがかなう神のごとき高次元の存在がいるのですから、むしろ出産とは逆に産道を戻っている、「この世」にではなく「あの世」へと帰ろうとしているのかもしれません。
胎児が、さらに胎児に……「ゾーン」に近づくにつれて、さらにさらに胎児に。

そうして、わたしは眠りました。
胎児のように眠りました。

起きたときにはどうだったでしょうかね、だいぶ昔のことなので忘れてしまいましたが……生ビデオテープの録画されていないザラザラの映像が映っていたでしょうか、それともビデオテープの再生が終わったあとのテレビの黒一色の画面、あるいは「砂嵐」と呼ばれるアナログテレビ特有の白い点が多数ランダムにぽつぽつと映されている映像だったでしょうか。
(ちなみに、この「砂嵐」のときテレビから流れる「シャー」という音はホワイトノイズと呼ばれており、雨音と同様、胎児が胎内で聞いていた音に近いと言われています)。

ともかく、『ストーカー』は終わっていました。

寝ているあいだに一つの物語が終わっていました。
映画には現実逃避の側面がありますが、眠りも現実からの逃避の一面があります。
その現実から離れた眠りと映画が、同時並行的に進んでいました。

不思議な気分でした。
ふだんは理性が認識している自他の区別が眠りによりつかなくなり、『ストーカー』の登場人物たちとシンクロしたような気分だったかもしれません。
まるで、自分が主人公の一人になったような気持ちになっていたかもしれません。
自分も冒険したような心持ちだったかもしれません。
(といっても、3人の男は頭の禿げたいかつい顔のおじさんたちなのですが)

気分は爽快でした。
子宮で安らいできたかのように。




いまだにわからん、『ストーカー』の結末

これで終わりです。
テープを巻き戻して、眠りについたとおぼしきところから再び鑑賞開始とかはしませんでした。
なにか、よけいな気がして。
わたしは気分良く眠れた(現実逃避できた)ことに大いに満足しました。

それきりです、『ストーカー』は。
いまでも、あのあと物語がどうなったのか知りません。
本やネットで簡単に調べることはできるでしょうが、いっさい、それはしていません。

わたしにとっての『ストーカー』は、【大検高校カット版】です。
「ゾーン」に侵入している最中に不意に眠ってしまって、それで終わり。
気分良く目覚めて、そこで終わりがわたしの『ストーカー』。

それ以外の『ストーカー』にはあまり興味がありません。
良い思い出は、思い出のままに……。
なにしろ、タルコフスキーも原作であるストルガツキー兄弟の小説『路傍のピクニック』(邦訳『ストーカー』)をだいぶ自分好みに自己解釈したようですから、どうか、おあいこということで。



『時をかける少女』(1983)【原田知世】……忘れることと忘れられることの哀しみ【※ネタバレあり】


『時をかける少女』(1983)【主演:原田知世、高柳良一】

高校二年生の芳山和子(原田知世)が愛した少年・深町一夫(高柳良一)は、西暦2660年の世界からやってきた未来人だった。
一夫は自然がほとんど絶滅した未来から、成分が必要になったラベンダーを採集しにやって来た薬学博士だった。
しかし、未来から来た人間であることを知られるわけにはいかない。
そのため和子たちの記憶を改変し、和子の幼なじみを演じる。
一夫が和子と時をともにしたのは、実際はたったの一か月。
そのあいだに、和子にとって一夫は「いつもいるんだかいないんだかわかんない」たんなる幼なじみから恋心をいだく存在にまでなり、一夫もまた和子に特別な感情をいだくようになっていた。
だが、一夫は未来に帰らなければならず、その際には自分を人々の記憶から消していかなければならない。
そのことを告げられた和子は、一緒に未来に連れて行ってもらいたい、それが駄目ならせめて一夫の記憶を胸に生きていきたいと懇願する。
しかし、例外は許されず、つぎに会うことはあっても和子は自分には気づかないと告げながら一夫は忘却の薬品を和子にかがせる。
和子は、絶対に一夫のことを忘れないと心に念じながら気を失うのだった。

11年後、薬学の研究員になっていた芳山和子は、勤務先の廊下で一人の青年とすれ違う。
和子は、その青年が一夫であることに気づかぬまま、すれ違い去っていくのだった。




一縷(いちる)の望みとちょっとだけの嘘

わずかの望みをいだいて会いに来たのでしょう。
もしかしたら、自分のことに気づいてくれるかも、と。
その一縷の望みはかないませんでした。

わずかの望みに希望を託すというのは、人生のさまざまな場面で経験することです。
家族の幸せ、恋愛、受験、などなど。
そして、想いがかなわなかったとき、ときに嘆き、ときに後悔し、ときに「やはりな」と自分にちょっとだけ嘘をつく……悲しさをやわらげるために。

一夫もまた、そうだったかもしれません。
「やはり……最初からわかっていた」と、はかない望みをいだいていた自分にちょっとだけ嘘をついたかもしれません。




忘れる哀しさ、忘れられる哀しさ

『時をかける少女』(1983)を観たのは、80年代半ば~後半。
テレビで初めて放送されたときです。
わたしが中学生か高校生のときで、和子や一夫とほぼ同年齢でした。

この『時をかける少女』のことを思い出すと、いつも決まって一つのことに行き着きます。
……愛する人に忘れられるほうがつらいのか、それとも、愛する人を忘れるのがつらいのか。
『時をかける少女』では、忘れられたのが一夫、忘れたのが和子です。

わたしは最初、忘れられるほうが悲しさは大きいと思っていました。
相手の記憶のなかから自分の存在が消えてしまうわけです。
相手の思い出のなかに自分はいない。
これはむなしい。

そもそも、自分が忘れたなら、自分が悩むことはないでしょう。
悩むもなにも、きれいさっぱり相手を忘れているわけですから、自分の心のなかに相手は存在しない……0に等しいのです。
0に悩むことはない。

しかし、いつもわたしの結論はそれとは逆になります。
愛した相手をすっかり忘れていることに気づかないのは、相手にすっかり忘れられるよりも悲しい。
そして、怖い。

あるはずの思い出が、あるはずの過去が、すっかり頭から消えている。
そして、そのことをまったく知らない。
もし、家族のことが思い出や過去の記憶からいっさい消え去ったなら、そして、消え去ったことにすら気づかないとしたら。

そう考えると、平静ではいられなくなります。
「忘れられていることを知っている」悲しさは、「なにも知らない」悲しさより、まだ救いがあるのではないでしょうか?
それとも、やはり、はなから記憶のないほうが楽で良いのでしょうか?




『時をかける少女』(1983)のラスト

久しぶりに『時をかける少女』のラストシーンを写真で見ました。
すれ違ったあとの写真。
手前には廊下をこちら側に歩く和子。
奥に、一度だけちらっと振り返り和子の背中を見つめる一夫。
思い出してもらえなかった一夫(高柳良一)の顔は寂しそうです。
かたや、正面を向いて一夫から去っていく和子(原田知世)は無表情。
なにもわからないのです。
この写真を見て、寂しそうな高柳良一より、かつて愛した人を目にしてもまったく気づかない原田知世のほうに、より哀れを感じました。
このあと、高柳良一は背中を見せて画面の奥へ去っていきます。
原田知世は最後まで、なにもわかりません。

『敦煌』(1988)……まわりはカップルばかりなり、一人は自分のみの巻



敦煌

『敦煌』(とんこう)

1988年6月25日公開。
原作:井上靖
監督:佐藤純彌
出演:佐藤浩市(趙行徳)
   中川安奈(ツルピア)
   西田敏行
   渡瀬恒彦
   柄本明
   原田大二郎


11世紀、中国。
北宋の時代。
科挙の試験に落ちた趙行徳(ちょう ぎょうとく)は自暴自棄におちいる。
そんな折り、中国の西の辺境に建国された新興国「西夏(せいか)」の文字に興味をもった行徳は、わずかな希望を胸に抱いて、はるか西方を目指す。
中国大陸の西の辺境は砂漠の大地。
行徳は砂漠に難儀しながら西夏を目指すも、途中、西夏の軍隊に捕獲されて強制的に兵士に編入されてしまう。
その西夏の軍隊は、砂漠の大地で異民族のウイグル族と抗争し、勝利し、着実に領土を拡大していく。
ウイグルに勝利したとき、偶然、行徳は逃げ遅れて身を潜めていたウイグルの王女ツルピアに出会う。
初めは敵として行徳に刃を向けたツルピアも、行徳の誠実な人柄に触れ、二人は愛し合うようになる。
しかし、この二人の出会いはのちにツルピアの死という悲劇を生む……。
大国目指して領土を拡大する西夏。
その野望は、シルクロード(後世、1877年命名)のもたらす莫大な富により繁栄する砂漠のオアシスの国・敦煌にも迫る。
そんななか、失意のどん底にいた行徳は、敦煌の文化遺産を守るため立ち上がる。
行徳たちは、仏教経典や書籍・美術品などを戦乱による破壊から守るため、敦煌城から敦煌郊外の石窟寺院(せっくつじいん)へとそれらを運び出す。
戦乱による混乱のなか、行徳たちの文化遺産を守る戦いは難渋をきわめた。
……そのおよそ900年後、1900年、敦煌郊外の莫高窟(ばっこうくつ)で歴史的に貴重な経典などが多数発見される。
誰が、なんのため、いつ、莫高窟にこれらの文献を秘匿したのかは、いまだ歴史の謎のままである。




シルクロードがブームだった

1988年は、シルクロードがブームでした。

2時間枠の特別番組が民放のゴールデンタイムでけっこう放送されていた時代です。
好評だった『NHK特集 シルクロード』も、第一部(1980~81)、第二部(1983~84)に続いて第三部(1988.4.23~89.3.26)が放送。

「なら・シルクロード博覧会」(1988.4.23~88.10.23)は入場者682万人を記録しました。

そして、井上靖のシルクロードものを中心に出版界でもシルクロード・ブームが起きていました。
映画『敦煌』は、そのような土壌で制作され、この『敦煌』がさらにシルクロードへの関心を盛り上げます。




『敦煌』を観に、宇都宮へ、劇場へ

高校2年のわたしは、7月か8月……いずれにしろ真夏に宇都宮(栃木県)に『敦煌』を観に行きました。

高校1年のとき、「進研ゼミ」の情報誌で井上靖の歴史小説の存在を知ってから、わたしは井上靖の大ファン。
大の歴史好きということもあり、『敦煌』は見逃せない作品でした。

劇場のスクリーンは、建物2階ぶんをぶち抜いたかのような大画面。
当時の栃木県の映画館では、もしかしたら、最大のスクリーンだったかもしれません。

客席も広い。
しかし、観客数はその客席を埋めるにはほど遠い人数でした。

わたしは、わりと前のほうに陣取ったのですが、上映前、観客数を確認するために後ろを振り返ると客席はすかすか。
大きな映画館に、観客が30人ほどでしょうか。
客席の空きがあまりにも多いので、指定席制ではなかったこともあり、銘々が大海のなかの離れ小島のように距離を置いて散在していました。

わたしの左右、後ろには7、8人分の空席があったのではないでしょうか。
ですから、目立つのです。
観客と観客とのあいだに大きな分断があるため、観客が一人で来たのか、連れと来たのかが。
そして、わたしにとり悲劇的だったのは、わたし以外、すべてが男女のカップルでした。
15組くらいでしょうか。
その15組30人のカップルが、離れ小島のようにそれぞれ一つ所にまとまっているのです。
一人はわたしだけ。




まわりはカップルばかり

……ちょっと、きつい。
戦力比、1:30。
30人のカップルと、一人のひとり者です。

互いへの熱い想いに焦がれる恋人たち。
(冷めている人もいたかもしれませんが)
対するは、相方のいない男子が一人。

先にも後にも、これだけ男女のカップルに占められた映画館というものを経験したことがありません。
たいがいは、一人客や女性同士、男性同士の観客がいく人かはいるものです。
これに近い状態は、東京の渋谷で『レオン』(日本では1995年公開)を観たとき。
特別割引の日でしたので観客は満員、また渋谷という場所柄デート中であろうカップルたちで館内はあふれんばかりでしたが、それでも一人客、女性同士、男性同士の観客もいたように記憶しています。

しかし、宇都宮の『敦煌』上映館内は、わたし以外、カップルばかり。
ポーカーのストレートフラッシュです。
わたしがいなければ、カップル100%のストレートフラッシュ。
しかし、わたしがいるのでカップル率100%にならず、ストレートフラッシュならず。
……こういうときは、みなさんに謝ったほうがいいですかね?(ヤケ気味)

多少は、わたしもそのとき怯みました。
『うっ、俺だけ……?』
と。

しかし、わたしは高校入学直前ごろから、「偏執的な愛情」を歴史に抱いている人間です。
恋人たちが互いへの熱い想いに燃えているとき、わたしは、まだ見ぬ敦煌……西域(せいいき/さいいき)……シルクロードへの熱い想いに燃えていたのです。
わたしの情熱は、上映前から『敦煌』にのみ向けられていました。
そして、上映中、わたしは誰にも邪魔されず、戦いと恋、絶望と希望、死と生のドラマに埋没していました。
わたしの心は、1988年の日本ではなく、11世紀の砂漠の世界へと旅をしていたのです。

入れ替え制ではなかったので、2回連続で鑑賞しました。
じつに、良い映画でした。
夏の良い思い出です。

ですから、恋人と『敦煌』を見たなら、どのような感情が芽生えたのか、そんなものにはまったく興味はありませ……やっぱり、それはありますよね。


熱に浮かされた日は、「夢」と「映画」(エンドルフィンの海に溺れて)



熱に浮かされた日


熱が出たときというのは、苦しいと同時に、謎の昂揚感も。
布団にくるまると、みょうな安らぎをおぼえます。

これは一つには、かつて、熱があれば学校を休めた記憶がそうさせているのかもしれません。
イヤな学校を、熱という「錦の御旗」によって休めたわけです。
ずる休みよりもパーフェクトな休みの口実。

そして、その日は寝込みっぱなしではなく、漫画読んだり、アニメ観たり、映画観たり、38度以上の熱とかシャレにならない状況でなければ、良い休日になるわけです。
わたしの場合、大人になってからの高熱はほとんどなくなりましたが、子供のころはけっこう高熱を経験していたので馴れっこになり、39度ちょっとくらいまでならアニメや映画をがんがん観ていたような……。




エンドルフィンが見せる夢?


それに、脳内麻薬ともいわれるエンドルフィンかなにか、苦しさを緩和する脳内物質が出ているのでしょうね。
麻薬のような多幸感をもたらすエンドルフィン。
苦しさの度合いに応じて、脳をエンドルフィンが浸すわけです。
脳のエンドルフィン漬け。
そうすると、苦しいにもかかわらず意味不明な昂揚感が湧いてくる。
寝床で丸まると、巣のなかのひな鳥のようなたまらない静穏さにつつまれる。

それと、熱が出たときって、優しい夢を見ませんか?
自分に都合のいい夢。
今日の昼(2019.5.31)、花粉症のアレルギーでかなりひどい疲労困憊(こんぱい)状態のなか熟睡しましたが、なにか映画みたいな夢を見ました。
はっきりとした夢の記憶はないのですが、恋愛していましたね。
相手の顔もおぼえていませんし、どのようなストーリーだったかも記憶にないのですが、目覚めたときに『恋愛か……』と心のなかでつぶやいていたので、おそらくそうなのでしょう。
いい気分でした。
夢のなかでは能力、魅力、人間力などが段違いに上がりますからね!(かなしい……)。

熱に浮かされているなど調子のわるいとき、なにか自分におあつらえ向きの「良い夢」を見るのがお決りのような気がします。
エンドルフィンが見せる夢なのかもしれません。
現実を忘れさせ多幸感でみたして川底に引きずりこむサイレンの魔女の歌声のような、エンドルフィンの見せる幻。
無意識の奥底に引きずりこみ、現実とはちがう異世界……夢の世界にいざなうのです。




病気休みの日には映画鑑賞(『2時のロードショー』)


学校がとくにイヤだった82~86年ごろは、病欠の日は映画が定番でしたね。
82、83年ころは、小学校の登校時間あとの時間帯のため絶対観られなかったテレビ東京の『伝説巨神イデオン』再放送も。
この二つは、病気休みの思い出です。

当時、関東地方ローカルのテレビ東京で、平日午後の2:00~3:25まで『2時のロードショー』という映画番組がやっていました。
そして、80年代前半には、テレビ東京で平日午前10時台から1時間半未満、もう一本の映画番組がやっていました。
夕方までに、最大2本の映画を観ることができたわけです。

ただ、このころテレビ東京で放送される映画は子供に向いていないものが多いのです。
いまテレビ東京では、午後の1:35~3:40まで『午後のロードショー』が放送されています。
放送される映画は、比較的新しいものはマイナーなものですが、70年代、80年代、90年代作品だと有名作品、ヒット作などが目白押し。
かつてならゴールデンタイムに目玉として放送されていた映画も、普通に放送されています。
(ブレードランナー、マッドマックス2、遊星からの物体X、ダイ・ハード、逃亡者、などなど)
古くなって放送権料が安くなったのでしょう。

しかし、『2時のロードショー』は82年83年の放送リストを見ても、ほとんど無名の映画ばかり。
過去の大作も放送していますが、ごくまれ。
なにしろ、人気がなくて放送権料の安い映画をまとめ買いしてきては放送していたそうですから。
一般受けしそうにない映画が多かったでしょう。
もちろん、一般受けしなければ子供受けはむずかしい。
たとえば『スターウォーズ』とおもいきや『スペース・ウォーズ』(83年3月31日(木)放送)だったり。

この『2時のロードショー』、お茶の間にとんでもない映画をつぎつぎと送りこんでいたことでもそれなりに有名な映画番組。
よく「トラウマ」になったとか紹介されています。
人が理不尽に死んでいっても事件は解決しないで終わったり。
主人公やヒロインの精神が病んでいって、最後は事故で亡くなったり、殺害されたり。

そんなのを熱にさいなまれながら観ていたのです、悪夢ですよ。
……いや、脳内の快楽物質にたすけられて、わけのわからない幸福感につつまれていたのかな?



サラ・パターソン『狼の血族』(1984)……花の色は移りにけりな



人生の浮き沈み


自分の人生を思い起こしても、人生の浮き沈みは目まぐるしく攻守所を変えるのが常のような気がします。
いじめなどで最悪だった中学3年のとき、その一年以内におとずれる、生徒会副会長やクラス委員長をつとめることになる高校1年の充実した学校生活は予想できませんでした。
しかし、その高校1年の2~3年以内に、記憶の障害が起きて何十年とつづく苦しく長い闘病生活が自分を待っているなどということも予期してはいませんでした。
しかし、その闘病中にも、大学合格の夢はかなえることができました。
良きことも悪しきことも、突然それはやって来て、しかし、いつまでも幸福ではないものの、いつまでも不幸というわけでもないのが人生なのだというのがいまの実感です。




サラ・パターソン


この人生の浮沈ということについて、今年(2019)のGWに、あらためて実感させられることがありました。

いつもは時間的にやれないことをGWにやろうということで、山登り(舗装された道ですが)などとともに、消息のわからない気になる女優さんを本格的にネットで調べてみることにしました。
幾人かいます。
そのなかでも、もっとも消息を知りたかったのが「サラ・パターソン」でした。

ご存じの方は、そう多くないでしょう。
ほぼ、「狼の血族」(1984)が唯一のメジャーな映画出演ですから。
それも、ホラー映画ファンしかほぼ知らない限定されたメジャー作品です。




狼の血族


「狼の血族」は、ホラー映画などの映画祭ではグランプリを取ったり(シッチェス・カタロニア映画祭(スペイン)、ポルト国際映画祭(ポルトガル))、『ターミネーター』(1984)にグランプリはさらわれたものの次席である審査員特別賞を受賞したり(アヴォリアッツ・ファンタスティック映画祭(フランス))と、ファンのあいだでは高く評価されたホラー映画でした。

手短にいえば、『赤ずきんちゃん』のような童話めいた中世世界における、けっこう陰惨な狼男もの。
ロザリーン(サラ・パターソン)は、森に囲まれた村に住む13歳?の少女。
ロザリーンは、森で一人の猟師に出会います。
村にはいないような知性的で上品でかつセクシーな美男子の猟師に、ロザリーンは惹かれていきます。
左右の眉毛がくっついているという狼男の特徴をもつその男に疑いをもちつつ、それでも、ロザリーンは自分の衝動をどうすることもできずに性に目覚めていきます。

というフロイト的な少女の性の目覚めをテーマにしたホラー映画。
このロザリーンを13歳(か15歳)のサラ・パターソンが演じました。

内容がセクシャルなだけに、ロザリーンにはそれにふさわしい美しい少女が抜擢されました。
サラ・パターソンは、当時、その美しさが世界中のホラー映画ファンや映画関係者から注目されました。




サラ・パターソンとジェニファー・コネリー


美少女はだれかと問われれば、ジェニファー・コネリー(1970生まれ)とサラ・パターソン(1972(もしくは1970)年生まれ)の二人をわたしはまず挙げます。
わたしと同年代で印象深いということもあるでしょうが、二人の『フェノミナ』(ジェニファー・コネリー主演)『狼の血族』における美しさは、世界トップクラスの美しい少女とはどういうものかの、わたしのなかでの典型でありつづけています。

ジェニファー・コネリーは、デビューのときから「十年に一人の美少女」などと騒がれていました。
日本でも、80年代後半の『スクリーン』や『ロードショー』の読者投票で女優No.1になるなど、若い人のあいだで絶大な人気を博していました。
20代で、正直、女優さんとして失速した感はいなめませんが(それまでが世界的なスーパーアイドルだっただけに)、それでも2001年度作品の『ビューティフル・マインド』では世界の助演女優賞(アカデミー賞、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞、放送映画批評家協会賞)を獲得しています。

かたや、サラ・パターソンは、日本ではほぼ『狼の血族』のみがそれなりに知られているにすぎません。
ネットでも、日本語ではほぼ『狼の血族』だけしか探り当てることができませんでした。
サラ・パターソンのほかの作品、いまでも女優なのか、そうではないとしたらいつ女優でなくなったのかなど、いっさいわかりません。
この時点で、サラ・パターソンが女優として大成しなかったであろうことはほぼ明らかでした。

あれだけの美少女、そして美女になったであろう(と思い込んでいた)サラ・パターソンでも、女優として成功するのは難しいのかと嘆息するおもいでした。




サラ・パターソン……


しかし、それはわたしの思い込みでしかありませんでした。

GWに、外国語のサイトにまで手を伸ばしてみました。
日本語翻訳機能を使ってです。
すると、サラ・パターソンが5本の映画に出演しているらしいことがわかりました。

1984年『狼の血族』でデビュー。
1987年、白雪姫もので主演の白雪姫。
このあと14年間の空白。
そして、2002、2006、2007年に、おそらくは端役で一作品ずつ映画出演。
とこんな感じでした。
日本で公開されたのは『狼の血族』だけのようでもあります。



そして、写真を見て、失礼ながら驚愕しました。
1987年(16歳(か18歳))の時点で、『狼の血族』の世界的な絶世の美少女ともいうべき美しさがちょっと褪せているようにおもえました。
でも、じゅうぶん美少女ではありました。

しかし、2002年(30歳(か32歳))の写真を目にしたとき、わたしは茫然としました。
「別人?」
そうおもわざるをえませんでした。
たしかに面影はあります。
しかし、同一人物とはおもえないくらいに、その美貌は褪せていました。
30歳(32歳)にしては、やつれているのです。
年齢よりもお年を召しているようにも見えます。
少女のころの華やぎが感じられない。
正直、これがサラ・パターソンであることを前もって知らなければ、一生、気づくことはなかったでしょう。

ジェニファー・コネリーも、世界トップの美少女の一人と称賛されていたころにくらべると、ある時期をすぎたあとは、同年代の女優さんのなかでもトップクラスとは言いづらくなったとはおもいます。
それでも、美女であることはたしかだとおもいます。

しかし、サラ・パターソンは、まことに失礼ながら美人女優とは呼ばれないでしょう。
かつての世界的な絶世の美少女は、少なくとも30歳のときには、そうではなくなっていました。

13歳(15歳)のころなら、同年代の女優さんたちの写真をずらりと並べて「どれがサラ・パターソン?」と問われれば、「綺麗な女の子を順に選んでいけば、すぐにサラ・パターソンに行き着くよ」と答えたでしょう。
しかし、30歳以降だと、それは通用しません。
同年代の女優さんたちのなかに、サラ・パターソンの写真は埋没してしまうでしょう。




若き日のサラ・パターソンは、映画『狼の血族』のなかに


ショックではありました。
サラ・パターソンは、わたしにとって美少女を代表する二人のうちの一人なのです。

ただ、サラ・パターソンには『狼の血族』があります。
そこには、若く美しかったサラ・パターソンがいます。
映画雑誌やムックにも、写真というかたちで、あのころのサラ・パターソンがいます。
なによりも、わたしの思い出と記憶のなかに、あのころのままのサラ・パターソンがいます。

齢(よわい)をかさねると、諦念(ていねん)がそれなりに生じます。
悟りというほどおおげさなものではないですが、それに近いもの。
人はいつまでも、同じままではいられない。
のぼるときもあれば、くだるときもある。
現実は受け入れましょう、というような心境です。

ただ、かつてサラ・パターソンが美しく魅力的であったこともたしか。
心のなかではいまも、中学生のわたしが、『狼の血族』に主演した13歳(15歳)のサラ・パターソンをまぶしい目で見ています。

まことに、「花の色は移りにけりな」なのです。