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ヒイロ/デュオ/カトル/トロワ/五飛……ゆっくりと友情を『新機動戦記ガンダムW』



10人いれば10の学説がある?心理学


心理学は、10人学者がいれば10の学説があるとからかわれるほど、人によって学説が違うそうです。
心理学はどこまで科学的かという問題があります。
人の心が研究対象であるため、客観的基準が見い出しにくいのかもしれません。
ある意味、銘々が主観的に考えた哲学のようなもので、個人の生き方や生き様が強く学説に反映してしまうため個人の我と我がぶつかりあい、統一した意見が形成しにくいのかも。

なにしろ、心理学の勃興期を代表するフロイトからして、その弟子たちの離反、弟子たちとの仲たがいが恒常化しているような印象。
フロイトそのものが、けっこう、心理療法を必要とするような、人とあまりうまくつきあえない依怙地な性格だったようです。

男の子は母親に性的欲求をもち、父親から母親を奪いたいと願っているものだというフロイト。
そのフロイトこそ、きわめて美しい母親に溺愛され、厳しい父親に対抗心をもち、母を自分のものにしたいという欲求をもつ(かなり重度?の)マザコンでした。
フロイトのマザー・コンプレックス概念は、だれあろうフロイト自身の影絵だったのです。

そして、心理学の歴史でもしかしたらフロイトのつぎに著名かもしれない弟子ユングは、師匠フロイトと仲たがいしたお弟子さんの一人であり、多くのフロイト理論に反対しつづけた一人です。
(ユングがフロイトのマザー・コンプレックス概念に賛同できなかったのは、ユングの母親の見た目がそれほどよろしくなかったからだという説もあります。
真偽のほどは定かではありません。
でも、事実だとすればかなり単純な理由……しかし、人間はそんなものかもしれませんねえ)




『新機動戦記ガンダムW』の主人公たち


新機動戦記ガンダムW』の主人公の少年5人の幾人かは、心理学の研究対象になるようなあやうさをもっています。

外見的にも内面的にも能天気で健全なデュオ・マックスウェル
難局であっても明るさをうしなわないデュオは、ドラマが暗い展開のときになんども安堵させてもらいました。
(ただし、当初目立っていたデュオが、終盤、健全すぎて印象にあまり残らなくなったとおもうのは気のせい?)

寡黙すぎなのが心配ですが(記憶をごっそり失っているのですからしかたないですが)、内面はけっこうバランスがとれているような気がするトロワ・バートン
その浮かれたところのない寡黙な手堅さが、みなの信頼をあつめていたような気がします。

一見すると優等生ですが、内面に現実の厳しさに直面すると病んでしまう脆さがあるカトル・ラバーバ・ウィナー
優しいカトルは、父の理不尽な死を乗り越え、強さをも身につけました。

表向き強がっているも、じつは内面的な脆さでは5人のなかでも圧倒的な気がする張五飛(ウーフェイ)。
ウーフェイだけは脆さを残したまま終幕したようにおもうのは、わたしだけでしょうか?
(美しく滅びる……破滅願望があったようなトレーズの、負け逃げのような死で成長する機会を逸してしまったような)

脆くはないですが、心が未発達で死ぬことも恐れない、それゆえ生命という点では危地にいるヒイロ・ユイ
ヒイロはけっして弱い少年でないのですが、死を恐れないのが心の強さといっていいものかどうか。
死に恐怖するだけの感情が育っていないのだとすれば、それはそれで大問題だとおもいます。
ただ終盤では、感情が成育したうえで戦いをおそれない少年へと成長しました。
これも、4人の仲間たち、ゼクスやトレーズなどの大人たち、そしてなによりもリリーナとの触れ合いのなかで健全な感情を育んでいったからでしょう。
リリーナの薫陶よろしきを得たというところでしょうか?
しかし、女性の色に染まったと考えると、仏頂面のヒイロらしくなくてけっこう笑えます。




カトルとトロワ……「優しいやつほどつらく追い込んでいく」「優しいカトルに戻ってくれないか」


カトル、ウーフェイ、ヒイロの3人は、心に闇をかかえていたような気がします。

カトルが無念の死を遂げた父の一件で闇落ちしたとき、トロワが生命を的にしてカトルの心を救ってくれました。
カトルとトロワは同性愛的という意見をけっこう目にしますが、それでも良いようにおもいます。
二人の絆は、友情であろうが恋愛であろうが、わたしにはとてもまぶしい。




ウーフェイとトロワ……「ヒイロがリリーナを連れ帰ったら挨拶ぐらいしてやれ」


ヒイロとウーフェイは、協調が苦手。
人と交わるすべを知らない未熟さがあります。
しかし、この二人にも仲間に心を開いてきたなというエピソードがいくつかあります。

たとえば終盤の46話(全49話)。
ヒイロが、無謀にも単独でリリーナを救出に向かったときのことです。
(ヒイロも、リリーナのことになると冷静でいられなくなったのですねえ……出会ったころは「お前を殺す」となんのためらいもなくリリーナに言っていたのに)
読書をしているトロワは、近くで筋トレをしているウーフェイに言います。

「ウーフェイ、ヒイロがリリーナを連れ帰ったら挨拶ぐらいしてやれ。女はおまえ以上に傷つきやすい」

女性が男子より傷つきやすいという意見には異論もあります。
強がっている男子こそ、もっとも傷つきやすいのではなかろうかともおもいます。

それはともかく、トロワのクールな外見に似合わない気配りの良さはみごとですね。
そして、傷つきやすいと指摘されても、トロワの言葉を黙って聞いているウーフェイ。
かつてなら、ウーフェイはむきになって、その言葉を否定していたでしょう。
しかし、いまは黙して耳をかたむけるのみ。
そこには、ウーフェイのトロワに対する信頼が見て取れます。
たぶん、仲間としてトロワを認めているからこそ、おのれの脆さを指摘されてもそれを受け入れられるのでしょう。

えらい進歩です。
かたくなに仲間になることをこばんでいたウーフェイ。
しかし、このさりげない日常の会話から、彼らの関係が着実に構築されていることを描写してのけているのです。
戦闘のあいまの、さりげない少年たちの友情に、ほっとさせられます。




ヒイロとトロワ……「死ぬほど痛いぞ」


そして、ヒイロの「死ぬほど痛いぞ」。
12話。

この台詞には前段階があります。
ガンダムを放棄しなければコロニーを破壊するぞと敵のオズに脅され、コロニー側の人間であるヒイロはためらうことなく自分もろともガンダムを自爆。
意識をうしない、頭から大量の出血をし、瞳孔が開いているといった死一歩手前の状態に。
ヒイロは、そこから奇跡的に生還。
療養しているヒイロに、トロワがたずねます。

「おれには決心がつかない。もし再び、オズがコロニーを盾に戦ってきたらどうすればいいか……あるいは、おまえを見習うべきなのか」(トロワ)
「だったら一つだけ忠告がある」(ヒイロ)
「ん?」(トロワ)
「死ぬほど痛いぞ」(ヒイロ)
そして、トロワ、爆笑。

ふだん、笑わないトロワの爆笑です。
ほっとします。
少年らしい屈託のない笑い。

わたしも、真顔なヒイロの台詞にトロワとともに大笑いしました。
死ぬ一歩手前までいったのですから、死ぬほど痛いのは当然なのですが、それを率直に言うヒイロのピュアさというか、正直さというのがおかしい。

なぜトロワが爆笑したのかについてはいくつかの説がありますが、わたしは、ヒイロのバカ正直なところにトロワが好感をもったからではないかとおもっています。
わたしじしん、ヒイロに好感をいだきました。

この台詞についていまでも謎があります。
「死ぬほど痛いぞ」を真剣に言ったのか、冗談で言ったのかということです。
トロワに爆笑されて「よし、受けた」とおもったのか、「なんで、こいつは笑っているのだ?」と怪訝におもっていたのか。
ヒイロのキャラクターからすると後者の可能性が優勢のようにおもえますが、意外と前者だったりして。
冗談を言いなれない子は、真顔でギャグを言ったりするものですから。
どちらにしろ、親しみのもてる主人公にヒイロがなったのは、このエピソードからのような気がします。




ゆっくりと友情を


『W』は、ゆっくりと少年たちが友情を取り結ぶさまを丹念に描いています。
突然、友情の絆が生まれてしまう作品もけっこう多いなか、『W』はそこいらへんが繊細で観ていてすがすがしい作品でした。



ルイン・リー……クンタラ、差別される下層階級の人たち『ガンダム Gのレコンギスタ』



下層階級・クンタラ


クンタラとは、『Gのレコンギスタ』(2014)のリギルド・センチュリー(R.C.)世界において差別される下層階級の人たち、およびその末裔の人たちのこと。



クンタラに属する人物は、『Gのレコンギスタ』の主要キャラクターにけっこういます。

ルイン・リー……主人公ベルリ・ゼナムの最大のライバル
マニィ・アンバサダ……ルインの恋人であり、ノレドの親友(好きなルインの気を引くため、クンタラを装っている説もありますが)。
ノレド・ナグ……ベルリの恋人?で、アイーダ・スルガン(ベルリの姉)とならぶ本作のヒロイン




クンタラとは?


クンタラは、劇中で蔑称として用いられています。

富野監督によれば、宇宙世紀末期に食糧危機におちいった人類が食糧として人を食べた、その食糧とされた人たちの末裔がクンタラだそうです。
しかし、当初から劇中でそのことを明らかにする予定はなかったとのこと。
実際、劇中、突っこんだ具体的な説明はありませんでした。

富野監督自身も、なぜクンタラの人たちが食糧にされたのか知らないとのこと。
(設定を考えていないのか、あるいは、あえて言わないだけなのか?)
人が人を食べるという異常な宇宙世紀末期の混沌も、いっさい説明はありません。

おなじクンタラ出身の部下にルインが、
「クンタラとはなにか?」
と問い、
「今世紀以前、人に食われるような劣った人という意味だったと聞きます」
というセリフが、本編における数少ない(唯一の?)クンタラの説明でしょうか(第7話)。




人が人を食べる


飢餓で極限状態に置かれたとき、人が集団で死体や殺害して人を食べるという事例は歴史上たしかにあります。
パプアニューギニアでは太平洋戦争敗戦時の逃亡のさなか、極限の飢餓のなかで、くじ引きで外れを引いた二名の日本人兵士を射殺、部隊のものたちがその遺体の肉を食べる事件が実際に起きています(ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』1987)。
もちろん、これは一例にすぎません。
ただ、よほどの異常な状況のもと、こっそりとです。
人を食うというのは、いかな理由があるとはいえ禁忌に属する行為なのです。
知られてはまずい。
それだけ特殊なことなのです。




カーリー……インドの憤怒の女神


クンタラは、クンタラの魂の安住の地「カーバ」を守護する守護神「カーリー」を信仰しています。
(ルイン最後の愛機「カバカーリー」はこの「カーバ」と「カーリー」から来ています)

この「カーリー」は、インドの女神カーリーがそのもとでしょう。
カーリーは、シヴァ神の妻である女神パールヴァティ(あるいは女神ドゥルガー)の憤怒相。
普段は心優しいパールヴァティー(ドゥルガー)が激怒すると、理性を失い、血と殺戮を好む戦いの女神へと変じてしまうのです。
(こわい! 穏和な女の人が怒るとホントウにこわい! うぅ、許して……は? 夢か……みたいなこわさ)
シヴァ神はインドの神々のなかでもとくに強大な神ですが、怒ったときの奥さんにはもうお手上げ状態になってしまいます。

(ちなみに、『3×3 EYES』(サザンアイズ)のヒロインであるパイの正体はパールヴァティー。
パイも、二重人格(多重人格?)。
『3×3EYES』の最後にして最強の敵はシヴァ)

(魂の安住の地「カーバ」は、イスラム教最大の聖地であるメッカのカーバ神殿がもとでしょう。
こちらは、イスラム的)

また、クンタラという語感もインドめいているような。




不可触賎民(ふかしょくせんみん)……インドの最下層に位置づけられる被差別民の人たち


もしかしたら、インドの不可触賎民がクンタラのヒントになっているのかもしれません。
不可触賎民の人たちは、インドの最下層に位置づけられる被差別民。
ただし、不可触賎民のなかにも高い低いという序列は存在します。
紀元100~300年ごろにかけて不可触賎民の概念は生まれ、5~6世紀にかけてインド社会に定着したそうです。
現在、およそ2億人と推計。

マハトマ・ガンディー(1869~1948)は、不可触賎民の人たちをハリジャン(神の子)と呼称しました。
ヒンドゥー教の輪廻転生(りんねてんしょう)の考えをベースに、現世で苦しんでいる不可触賎民の人たちは、それゆえに来世で必ず良い生まれ変わりを迎えるだろうという考えからです。

しかし、それを偽善的と嫌う不可触賎民の人たちも多いそうです。
ガンディーたちはともかく、インド社会全体が良心に目覚めたかのような印象を外部にあたえるのはよろしくないというのです。

1950年のインド憲法で差別は禁止されました。
雇用、入学、奨学金などにおいて一定程度の優遇を制度として認められ、有力政治家も幾人も誕生していますが、根強い差別意識は残り、殺傷をともなう憎悪犯罪の対象になったり、また貧困率も相当に厳しかったりするそうです。

いまだに根強いカースト制。
その差別の構造に、クンタラの置かれている状況はちょっと似ているのかもしれません。




クンタラのルイン・リー


わたしはルイン・リー視点による、クンタラへの差別を乗り越えようとする物語を、もっと突っこんだかたちで観てみたいと思ったのですが……。
差別される者が差別を打破する物語は、富野監督お手のものではないでしょうか。
TVシリーズ(2014)をベースに新作カットを大幅に追加するという『Gのレコンギスタ』の劇場版(2017年からのはずが遅れに遅れ、いまは2019年から展開予定とのこと)で、実現しませんかね。

それとも、あまりにも重すぎる内容になってしまうでしょうか。
そのために、富野監督はクンタラについてお茶を濁したのでしょうか。




ディアナ・ソレル……「ディアナの本当の初恋の相手が、きっとロランに似ていた少年だったからだろう」(「∀の癒やし」富野由悠季より)『∀ガンダム』



『∀ガンダム』のラスト……ディアナとロラン


なにかと謎の多い『∀ガンダム』(ターンエーガンダム)のラスト。

ディアナ・ソレルは月の女王。
ロラン・セアックは、月に住むムーンレイスの下層階級出身の17歳の少年で、ディアナに心酔している∀ガンダムのパイロット。
(女装すると、とんでもない美少女に)



ラスト。
ディアナとロランは、小さな山小屋で二人きりの生活をはじめています。
どうして、二人は、ともに住んでいるのでしょうか?

ディアナは、ナノマシンによる冷凍睡眠により、覚めては眠り、また覚めては眠りにつくのを繰り返し、およそ1000年もの長きにわたり生命を保ってきました。
(外見は、19歳)
しかし、それゆえ、寿命はあまり残されていない。
そこで、月ではなく「終の棲家」(ついのすみか)を地球に定めました。
ともに暮らすのは、ロラン一人。




ディアナとロラン……結婚相手か臣下か


ロランはディアナに臣下として仕えているのか、それとも結婚したのか。
(結婚説のなかには、実際は主従の関係ですが、世間への体裁として表向き結婚している形式をとっているという説もあります)
これは、意見がわかれています。




結婚否定説、優勢?


圧倒的に前者の意見のほうが多いようです。
わたしも、しかり。
なにしろ、物語のなかで、ディアナとロランにまつわる恋愛エピソードがまったくありません。
その萌芽となるような、恋愛をにおわせる描写もなし。

なかには、結婚していると力説している方もいました。
知恵袋においてです。
その方は、「なぜなら、二人とも左手薬指に指輪をはめているから」というのです。

これを読んで、これは物凄い発見だなと思いました。
いままでの定説をくつがえす、あまりにも有力な発見です。

ただし、どうも、これは勘違いなのかな、と。
わたしは画面で指輪を確認できませんでしたし、知恵袋でも、ディアナの指輪を話題にしている人はいても、ロランの指輪に言及している人はほかにいません。
「ディアナは左の薬指に指輪していたけど、ロランしてなかったし」と明言している方すらいます。

もしかしたら、二人が男女として結ばれていてもらいたいというその方の願望が幻の「ロランの指輪」を見させたのかな、と。
わたしにも、その気持ちはわかります。
下層階級出身であるロランが、憧れの月の女王であるディアナと夫婦になる。
ロランのディアナへの崇拝と憧憬が混じりけなしにまっすぐであったために、そうなってくれたらいいなあ、とわたしも最終回を観ながらそう思っていました。
純朴な少年がお姫さまへの想いを成就させるというのは、かなわぬ片想いに身をやつした人たちには、現実でかなえられなかった恋愛の、せめてものちょっとした救済になるのではないでしょうか。

しかし、ディアナとロランのあいだに、なんら恋愛を類推させるものはなく、女王さまの身の回りの世話をロランがしているのだな、という結論に行きつくのにそう長い時間はかかりませんでした。
願望は願望として、いままでの経緯からするとディアナ&ロランはありえないだろうなあ、と。

二人の左手薬指に指輪があったという記述を目にして「そうだったのか!」という喜びが広がりましたが、結局は、どうも、「ロランの指輪」は「どこかにあるユートピア」(しかし、遥かな世界すぎて誰も行けない)ガンダーラのような幻だったようです。

(ただし、結婚説に関し気になる情報が。
オフィシャル設定ブックのようなものに「ロランとディアナ婚約」と書いてある、というブログが(『日記 ∀ガンダム ロラン・セアックとディアナ・ソレルの結婚』)。
出典元やらなにやらがいっさい不明ですので確証にはなりませんが、もしそれがオフィシャルのもので、そこに婚約のことが書かれているのであれば、結婚説(婚約説)に大きくかたむくことになるでしょう)




ディアナの本当の初恋の相手が、きっとロランに似ていた少年だったからだろう


ただ、ディアナにロランへの恋愛めいた感情があったのかな?という可能性を示唆する発言も。
富野監督の発言です。
富野監督の著書『∀の癒やし』でのこと。


「(ディアナは)最後の自分を看取ることをロランに頼んだ。
許したのではない。頼んだのだ。
なぜなんだろう?
それは、永遠の疑問ではない。簡単な理由だ。
ディアナの本当の初恋の相手が、きっとロランに似ていた少年だったからだろう。
人間などというものは、そんなものなのだろうとおもう。
それは、つまらないことなのだろうか?
そうではないと伝えたいのが、『∀』という物語なのだ」


富野監督は、発言が右に左に、上に下に、前に後ろに大揺れに揺れる人なので、その場の思いつきの発言である可能性もあり、どこまで信じていいのやら不明ではあります。

しかし、一度でもそのような発言をしていたのであれば、ディアナのロランへの恋愛感情(あるいは、それに近い感情)はあったのかな、という推論の種にはなります。
種が育って実をつける保証はありませんが、種がないよりはその可能性はずっと高い。
種がなければ0、種があれば0よりは上です。

しかし、初恋の相手に似ているロラン……。
これは、なにげに『∀』ファンには衝撃の発言なのではないでしょうか。

初恋の相手に似ているから、ロランと残り少ない人生をいっしょに暮らしたいということですよね?
これって、かなり結婚に近いのでは……?



最終話に明確な答えはないと富野監督はインタビューで発言しているそうです。
各人の想像にお任せということなのでしょう。



わたしは、けなげなロランのためにも、ディアナの初恋の相手がロランに似ているという言葉を信じたいものです。
(しかし、富野監督はけっこう出たとこ任せの発言するからなあ)




少年たちの純粋でまっすぐな生き方が40代後半の胸にはちょっとイタい『新機動戦記ガンダムW』(&『聖闘士星矢』『鎧伝サムライトルーパー』)



『聖闘士星矢』『鎧伝サムライトルーパー』『新機動戦記ガンダムW』


30代、40代になると、凛々しい少年たちにノスタルジーを感じるようになりました。

かつて、自分がなろうとして、おそらくはなれなかった凛々しい少年。
うだうだしていて煮え切らないわたしでは、とうていなれなかった凛々しい少年。

たとえば、『聖闘士星矢』(1986~89)の5人の少年たち。
華やかで、ときにありえないくらいキザなのですが、それがさまになってしまうペガサス星矢ドラゴン紫龍アンドロメダ瞬キグナス氷河フェニックス一輝たち。

たとえば、『鎧伝サムライトルーパー』(1988~89)の5人の少年たち。
ひたむきで、まじめすぎるほどにまじめなのに、それがなにゆえにか色気すら感じさせる烈火のリョウ水滸のシン金剛のシュウ光輪のセイジ天空のトウマたち。

この5人の少年たちの系譜につらなるガンダム作品が『新機動戦記ガンダムW』(1995~96)です。
ヒイロ・ユイデュオ・マックスウェルカトル・ラバーバ・ウィナートロワ・バートン張五飛(ウーフェイ)たち。




池田成……『サムライトルーパー』と『ガンダムW』で降板


『星矢』『サムライトルーパー』ともに大ヒットして、91年ごろまでつづいた美少年アニメブームを牽引した両作品。
そのうちの『サムライトルーパー』にあやかろうとしたのか、『ガンダムW』の監督は『トルーパー』の前半2クールの監督であった池田成。

『トルーパー』では、鎧が脱着できるアクションフィギュア「超弾道」シリーズを売り込むため、玩具メーカーのスポンサーが必殺技のシーンで「超弾道」の文字を画面に入れるよう要求、この無体な要求を拒絶したことにより2クールで降板させられた池田成が再び、サンライズの5人の美少年を主人公にした物語の監督に起用されました。
リョウたちだけでなく、監督もリアルの世界で必死に戦っていたわけです。
(ちなみに、『ガンダムW』では話づくりに凝りに凝りすぎたためスケジュールが破綻し、前半26話で降板しました。『トルーパー』のときといい、妥協しないのが池田成監督の性分のようですね。
さらにちなみに、後任は『ガンダムW』の後番組『機動新世紀ガンダムX』を監督する高松信司監督)




『ガンダムW』の少年たちは演劇的?


わたしは、『ガンダムW』は同じサンライズ作品・池田成監督の『トルーパー』よりも『星矢』に似た印象をもっています。
『トルーパー』の少年たちの描写がひたむきでリアルなのに対し、『星矢』の少年たちはうるわしくカリカチュアされているイメージ。
『星矢』のほうは現実的ではないのですが、『W』もどちらかといえばそちら寄りなのかなあという印象です。
少年たちの行動とセリフが尋常でなくかっこ良いのですが、演劇的なのです。
(トレーズ閣下にいたっては、ギャグとまがう、かぐわしいキザの奥義すら感じます)




純粋すぎる少年たち


10代のころは、『星矢』『トルーパー』の同世代の少年たちがかっこよくてまぶしかった。
20代のころは、一世代ちがう『W』の少年たちが、やはりかっこよくてまぶしかった。
30代、そしていま40代後半……少年たちはいまもまぶしい。
ただ、そこに微量の胸のイタみを感じるようになりました。

小さい子にまっすぐ直視されたとき、心のなかで「うっ」とくることはないでしょうか?
その瞳があまりにまっすぐで純粋すぎて、なにかやましさを感じてしまう。
べつに自分はさほど悪人であるとはおもっていないのですが(自覚してないだけ?)、しかし、なぜか怯んでしまう。
あれとおなじで、少年たちのまっすぐな生き様に、ひときわ異彩を放つさわやかさと、そのなかにちょっと後ろめたさを覚えるように。
30代のいつごろからでしょうか……。

昔は独りよがりながらも、それなりに純粋でまっすぐだったような気がします。
しかし、そのため凹んだり、傷ついたりしているうちに、けっこう物事を迂回して考えるようになってしまった気が。
もちろん、それが一方的に悪いとはおもっていません。
若いころのまっすぐさ、とくに独りよがりでは、なにかと都合が悪い。
協調性などで問題がなくもない。
精神的にも疲弊します。

まっすぐって疲れるんですよね。

しかし、それでも、まっすぐに生きる少年たちのさまは、わたしにはまぶしく、かつ、見ていてちょっとだけ胸がイタみます。
自分を韜晦(とうかい)している、いまの自分へのやましさからでしょうか。
独りよがりとはいえ、それなりにまっすぐだった過去への郷愁からでしょうか。



白って、けっこう、見ていて疲れませんか?
純粋なものを見ていると、ちょっとだけ物悲しくなりませんか?
星矢』『トルーパー』『W』の少年たちを見ていると、ほんの少しだけそんな気分になるんですよね。




独自のニュータイプ概念 それは高松信司から富野由悠季への挑戦状?『機動新世紀ガンダムX』



独特のニュータイプ論


『機動新世紀ガンダムX』のニュータイプ論は独特です。
独特のニュータイプ論には、高松信司監督の富野由悠季監督への批判があるのかなとわたしなどは邪推しています。




『ガンダムX』におけるニュータイプ


『ガンダムX』のアフターウォーにおいては、フラッシュシステムを稼働させることができる者のみがニュータイプ能力者と認められます。

フラッシュシステムは、宇宙世紀におけるサイコミュに相当します。
ビットやビットモビルスーツなどを制御できるシステム。

このビットやビットモビルスーツが戦争にはたいへん有用でした。

ビットモビルスーツにいたっては、ガンダムに乗るニュータイプ能力者が12機のビットモビルスーツ(Gビット)を操縦でき、12機もすべて自分が乗っているように自在に操縦することができるという代物です。
同時に、13機をなんの問題もなくあやつれるのです。
Gビットの性能は基本的に本体のガンダムと遜色なし。
つまりは、敵にしてみれば、ガンダムクラス13機で編成されたニュータイプ部隊と戦うも同然。
戦況を一変させる能力。
これは、すさまじい脅威です。



そのあまりの人間離れした強さゆえ、旧い人類を超えた「新しい人類」に人の目には映ったのでしょうか。
もともと、フラッシュシステムはビットやビットモビルスーツなどを稼働させる科学技術でしかありませんでした。
しかし、「フラッシュシステムをコントロールできる能力を持つ者のみがニュータイプ」という転倒した思想が生まれてしまいます。

「戦争の道具」として有能な者がニュータイプという思想です。



【人類の新たなる革新】ニュータイプ。
その壮大なニュータイプであるか否かの判断基準が、たんなる科学技術のフラッシュシステムを駆使できるかどうかにかかってしまったのです。

狭すぎる解釈です。
フラッシュシステムに対応できる人間だけが、ニュータイプであるという狭さ。

ニュータイプは異能力を持っている者のみがなれる。
ただし、異能力があればいいというわけではない。
異能者でもフラッシュシステムを起動させることができなければ、ニュータイプではないのです。

たとえば、フロスト兄弟は、兄弟間(のみ)のテレパシーで意思疎通能力や視覚等の感覚を共有できるツインズシンクロニシティの異能者で、2人の連携による戦闘力は絶大なものがありましたが、ビットモビルスーツをあやつるフラッシュシステムに対応できなかったという理由のみでニュータイプとは認められず、ニュータイプのできそこないというような(「カテゴリーF」Fはフェイク=にせもの)屈辱的な扱いを受けています。

異能者でなければ、なおさらニュータイプとは認定されません。




ニュータイプは幻想


この考えを、月の巨大ドーム状施設D.O.M.E(ドーム)のシステムに(肉体をうしない)意識を組み込まれた人類初のニュータイプ(ファーストニュータイプ)は否定します。
「ニュータイプは幻想に過ぎない」と。

ニュータイプは人類の革新でもなければ未来をつくるものでもない。
ニュータイプという思想に縛られているかぎり未来はないとすら語ります。

あえてニュータイプを定義すれば「未来に希望を持って行動していく人間」みながニュータイプだといいます。
能力の有無は関係ない。
優劣も関係ない。
それが、あえて定義した場合のニュータイプ。
しかし、それはあくまで「あえて定義すれば」であり、そもそも「ニュータイプは幻」なのです。
「特別な力などなくても、強い心を持って行動することが未来を切り開く力を生む」というのです。



幻想であるニュータイプ思想は、未来を切り開くには障害になるというのです。




富野由悠季はニュータイプにこだわっている?


じつは、これは富野由悠季監督へ苦言を呈しているように思えてしかたないのです。
ニュータイプにこだわる富野監督に。
(そうであったなら面白いという願望も、そう思わせる一つの要因でしょう)

『機動新世紀ガンダムX』は、1996年作品です。
それまでにガンダムのアニメ作品は、

『機動戦士ガンダム』(1979)
『機動戦士Zガンダム』(1985)
『機動戦士ガンダムZZ』(1986)
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1987)
『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(1989)
『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』(1991)
『機動戦士ガンダム F91』(1991)
『機動戦士Vガンダム』(1993)
『機動武闘伝Gガンダム』(1994)
『新機動戦記ガンダムW』(1995)

10作品が制作されました(映画オリジナル『逆襲のシャア』以外のオリジナルでない映画作品は省きました)。

『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』は同じ1996年開始ですが、7月からの発売です。
かたや『X』は、4月5日に放送開始で、『08』に先行しています。



このなかで、ニュータイプが主要なキャラとして登場するのは、すべて富野作品。
富野作品は、すべてニュータイプが主人公。

一方、富野作品以外では、主要なキャラにニュータイプは一人もいません。
『ポケットの中の戦争』は、ニュータイプ用ガンダムは出てきてもニュータイプは一人も出てこない。
『0083』は、ハマーンがゲストで1分ほど出てくるくらい。
『G』『W』の世界にいたってはニュータイプ概念が存在するかどうかも不明(漫画版『W』にはニュータイプ概念が存在。ゼクス・マーキスがニュータイプ)。

1996年時点では、アニメ作品におけるニュータイプ概念は富野監督専用といっていいでしょう。
そのニュータイプ思想に縛られているかぎり未来を切り開くことはできないと、ファーストニュータイプの口を通して高松監督は述べています。




高松信司……ガンダムシリーズの歴戦の勇士


高松監督は、『Z』『ZZ』『逆シャア』では富野監督のもと、設定や演出・演出補などで制作にかかわっています。
『Z』31話「ハーフムーン・ラブ」では初演出を経験しました(知る人ぞ知る、サラとカミーユがデート?してアイスクリームを食べる回。けっこう不思議な演出が多いことでもちょっと有名→よろしければ、こちらを『サラ&カミーユ 若さゆえの過ちか? アイスクリームのコーンを捨てる!!』)。
非富野ガンダムの『ポケットの中の戦争』では、演出(1、3、5話)と絵コンテ(3話)で作品にかかわっています。
『W』にいたっては、池田成監督が凝りすぎたすえに行き詰まり制作スケジュールが破綻し降板、29話?から後半半分を高松信司監督が代行しました(ただし、クレジットなし)。

歴戦の勇士といったところでしょうか。
ガンダムシリーズの申し子のような方なのです、高松監督は。
富野監督とも関係が深いその高松信司監督が、富野監督のこだわるニュータイプ思想を否定しているのです。




富野由悠季は「戦争の道具」としてのニュータイプを否定


思えば奇妙なのです。
わたしの記憶違いでしょうか?
(記憶違いであったならすみません)
富野監督は『Z』以来、「戦争の道具」としてのニュータイプ能力を「バカみたい」と否定していた気がするのですが……。
それなのに、いったんガンダムの世界から離れたあとの『F91』『V』でも、やはり主人公はニュータイプ。
そして、ニュータイプたちがひたすら戦う。

富野由悠季監督は、ニュータイプ思想に呪縛されているのでしょうか?
魅力的な悪女のように、ダメと知りつつ惹かれていってしまうのでしょうか?
それとも、ニュータイプについてのなんらかの心境の変化があったのだろうか……。