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少年たちの純粋でまっすぐな生き方が40代後半の胸にはちょっとイタい『新機動戦記ガンダムW』(&『聖闘士星矢』『鎧伝サムライトルーパー』)



30代、40代になると、凛々しい少年たちにノスタルジーを感じるようになりました。

かつて、自分がなろうとして、おそらくはなれなかった凛々しい少年。
うだうだしていて煮え切らないわたしでは、とうていなれなかった凛々しい少年。

たとえば、『聖闘士星矢』(1986~89)の5人の少年たち。
華やかで、ときにありえないくらいキザなのですが、それがさまになってしまうペガサス星矢ドラゴン紫龍アンドロメダ瞬キグナス氷河フェニックス一輝たち。

たとえば、『鎧伝サムライトルーパー』(1988~89)の5人の少年たち。
ひたむきで、まじめすぎるほどにまじめなのに、それがなにゆえか色気すら感じさせる烈火のリョウ水滸のシン金剛のシュウ光輪のセイジ天空のトウマたち。

この5人の少年たちの系譜につらなるガンダム作品が『新機動戦記ガンダムW』(1995~96)です。
ヒイロ・ユイデュオ・マックスウェルカトル・ラバーバ・ウィナートロワ・バートン張五飛(ウーフェイ)たち。

『星矢』『サムライトルーパー』ともに大ヒットして、91年ごろまでつづいた美少年アニメブームを牽引した両作品。
そのうちの『サムライトルーパー』にあやかろうとしたのか、『ガンダムW』の監督は『トルーパー』の前半2クールの監督であった池田成。

『トルーパー』では、鎧が脱着できるアクションフィギュア「超弾道」シリーズを売り込むため、玩具メーカーのスポンサーが必殺技のシーンで「超弾道」の文字を画面に入れるよう要求、この無体な要求を拒絶したことにより2クールで降板させられた池田成が再び、サンライズの5人の美少年を主人公にした物語の監督に起用されました。
リョウたちだけでなく、監督もリアルの世界で必死に戦っていたわけです。
(ちなみに、『ガンダムW』では話づくりに凝りに凝りすぎたためスケジュールが破綻し、前半26話で降板しました。『トルーパー』のときといい、妥協しないのが池田成監督の性分のようですね。
さらにちなみに、後任は『ガンダムW』の後番組『機動新世紀ガンダムX』を監督する高松信司監督)


わたしは、『ガンダムW』は同じサンライズ作品・池田成監督の『トルーパー』よりも『星矢』に似た印象をもっています。
『トルーパー』の少年たちの描写がひたむきでリアルなのに対し、『星矢』の少年たちはうるわしくカリカチュアされているイメージ。
『星矢』のほうは現実的ではないのですが、『W』もどちらかといえばそちら寄りなのかなあという印象です。
少年たちの行動とセリフが、尋常でなくかっこ良いのですが演劇的なんですよね。
(トレーズ閣下にいたっては、ギャグとまがう、かぐわしいキザの奥義すら感じます)


10代のころは、『星矢』『トルーパー』の同世代の少年たちがかっこよくてまぶしかった。
20代のころは、一世代ちがう『W』の少年たちが、やはりかっこよくてまぶしかった。
30代、そしていま40代後半……少年たちはいまもまぶしい。
ただ、そこに微量の胸のイタみを感じるようになりました。

小さい子にまっすぐ直視されたとき、心のなかで「うっ」とくることはないでしょうか?
その瞳があまりにまっすぐで純粋すぎて、なにかやましさを感じてしまう。
べつに自分はさほど悪人であるとはおもっていないのですが(自覚してないだけ?)、しかし、なぜか怯んでしまう。
あれとおなじで、少年たちのまっすぐな生き様に、ひときわ異彩を放つさわやかさと、そのなかにちょっと後ろめたさを覚えるように。
30代のいつごろからでしょうか……。

昔は独りよがりながらも、それなりに純粋でまっすぐだったような気がします。
しかし、そのため凹んだり、傷ついたりしているうちに、けっこう物事を迂回して考えるようになってしまった気が。
もちろん、それが一方的に悪いとはおもっていません。
若いころのまっすぐさ、とくに独りよがりでは、なにかと都合が悪い。
協調性などで問題がなくもない。
精神的にも疲弊します。

まっすぐって疲れるんですよね。

しかし、それでも、まっすぐに生きる少年たちのさまは、わたしにはまぶしく、かつ、見ていてちょっとだけ胸がイタみます。
自分を韜晦(とうかい)している、いまの自分へのやまさしさからでしょうか。
独りよがりとはいえ、それなりにまっすぐだった過去への郷愁からでしょうか。


白って、けっこう、見ていて疲れませんか?
純粋なものを見ていると、ちょっとだけ物悲しくなりませんか?
星矢』『トルーパー』『W』の少年たちを見ていると、ほんの少しだけそんな気分になるんですよね。




グリーン・ワイアット 良い友人にはなれなそうだが、傍から見ているぶんにはおもしろい『機動戦士ガンダム0083』



グリーン・ワイアット(U.C.0083)
・連邦軍大将
・連邦軍の主導者の一人
・派閥の領袖(ワイアット派)[ただし、コリニー派に属しているという説もある]
・貴族的な顔立ち
・気取り屋
・イギリス出身?
・スペースノイドへの差別意識あり
・ジオン残党の核攻撃により死去


「レディーは贈り物が好きだと相場は決まっている」
「勝利の味とダージリンの香り、これぞ紳士の特権だな」
「紳士は、時間に正確でなくてはな」

はあ、そうですか……。
はあ、でしょうね……。
としかリアクションが取れない、スカした……すばらしいセリフの数々。
(御大・田中秀幸さんの美声が、また、スカ……素晴らしい)

数少ないセリフがこの調子ですから、普段からこんな感じなのでしょう。


しかし、いざ、自分に内通したシーマとの秘密の会合を、なにも知らない他派閥(コーウェン派)のアルビオンMS隊にぶち壊されると、

「盛りおって、サルどもが!」

と激昂。
他派閥とはいえ本来は味方のはずのアルビオン隊を、盛っているサル呼ばわり。

本性……?

しかし、グリーン・ワイアットもなかなかのもので、激怒したあとすぐさま平静さを取り戻し、シーマ艦隊と遭遇戦をしているような体裁をつくろう命令を即座に出しています。
シーマ艦隊のムサイ級軽巡洋艦後期型「ニーベルング」を砲撃で撃沈させています。
シーマとの内密の接触を気取られないための、アルビオン隊へのアリバイづくりです。
しかし、シーマの乗艦するザンジバルII級機動巡洋艦「リリー・マルレーン」は逃がします。
シーマは自分の手駒なのです。
連邦軍内派閥争いの手駒(一説には、コリニー派・ワイアット派・コーウェン派の三すくみの争いという)。
ジオン残党の内部にいて、その事情に通暁している情報源。
生かしておいたほうが、自分にとってはなにかと有益なのです。
そんな計算がとっさにできるくらいには有能なのかもしれません。

なるほど、ワイアットはまったくのエセ紳士ではないのかもしれません。
怒りに我を忘れないのは、紳士のたしなみの一つなのですから。


グリーン・ワイアットはセリフからも、紅茶に対するなみなみならぬこだわりがあるようです。

イギリスでは、1660年代、貴族のあいだで喫茶が大流行しました。
イギリスの貴族は平民と差別化をはかるためにも(もちろん、それだけではないですが)、ティーを愛飲しました。
中国(のちインド)から輸入するため運搬などに多額のコストがかかり、そのためお茶(はじめ緑茶、のち紅茶)はいやがおうにも高価になり、平民には手が出ない。
そのことが、平民と格差をつけたい貴族にとっては好都合だったのです。
高級品だった砂糖もたっぷり入れるので、ますます高価に。
当時のお茶は珍重品だったのです。

(ちなみに、中国からヨーロッパへの長旅の運搬中に緑茶が偶然に発酵して紅茶が誕生したという説があります。
この説は、偶然が紅茶を生み出したというおもしろさからもてはやされていますが、事実ではないようです。
紅茶は中国で明代につくられたといわれています)


紳士であることと、貴族の飲み物であった紅茶を、まるで自分のアイデンティティーであるかのように前面に押し出しているところを見るとワイアットは相当に差別意識が強いのかもしれません。
友軍でも、おのれの邪魔をすれば、サル呼ばわりですからね。

サル呼ばわりには、自分が凡百どもとはちがう高級な人間であることへの自負と高慢とが顔をのぞかせています。
おのれの才覚や魅力に、かなりの自信をお持ちのよう。
紳士の仮面の下には、他人への侮蔑が満ち満ちている感じ。

そのグリーン・ワイアットが、陰謀にはめられて核攻撃で散っていくわけです。
自分でおもっているほどには有能でなかったということでしょうか。
それとも、神ならぬ人間の身では、どんなに優秀な人間でも罠にはめられるのはいたしかたないといったところでしょうか。

勘違いしまくりのワイアット
実際に身近にいたらかなり鬱陶しいかもしれませんが、遠くから見ているぶんには、その勘違いっぷりはわたしにはとてつもなくおもしろく思えます。

おれは優秀な選ばれたエリートなのだ!→だまされた! やられた!

の流れは、「いるよねそういう人」という納得と、「あまり同情できない」人間が被害にあったことからくる心のもやもやの少なさから、観ていておもしろい。
善良な人が陰謀の犠牲になる後味の悪さとは対極にあるのです。

また、ワイアットはルックスも良く、それなりに優秀そうなのも、被害者にはうってつけかもしれません。

ホラー映画もそうです。
若く美しい男女が被害にあうなら、それなりに絵になる。
同情するくらいに容貌にも才能にも、あらゆるものに恵まれない人が被害者になるとやりきれなさを感じるものですが、容姿・才気などに長じている者には、「まあ、しょうがないよね」とそれなりにいい思いをしているだろうからと納得もある程度いくものです。

ワイアットはその点では非常に優秀です。
貴族的な風貌、少なくともそれなりの才幹、きわめて高い社会的地位(声優の田中秀幸さんの美声と堂々たる演技はもちろん)……そして外せないのが、気取り屋のちょっとイヤな御仁ということ。

陰謀にはめられ抹殺される役者として、グリーン・ワイアットはじつの絵になる男子なのです。





イリア・パゾム あの人はいま?『機動戦士ガンダムZZ』(&サラ・パターソン『狼の血族』)




わたしは、80年代の映画を観るのが好きです。

80年代はほぼ十代でした。
感受性の強い時期に、観たり、雑誌などでその情報に触れたため、映画を観るなり、当時の雑誌などを読むと当時の若々しい感情がよみがえってきます。
懐古趣味というやつです。


それ以外にも、80年代の映画が好きな理由はいくつもあるのですが、その一つに、出演している女優さんや俳優さんはいまどうしているのだろうと想像するのが楽しいということが挙げられます。

役者として大成できないと、ほぼ近況を知ることは不可能。
たとえば、ホラー映画に出演した女優さんだと、若さと美しさで映画に出演したものの役者としての実績はさしたるものもなく、そのあとが続かないということは良くあります。

狼の血族』(1984)に主演したサラ・パターソンは、出演時、13歳の中学生でした。

作品は、赤ずきんちゃん的なメルヘンをベースにしたホラー映画。
ヒロインは、森に囲まれた小さな村に住む女の子。
将来の夫とさだめられた少年は、知的でなく、上品でもなく、美少年でもなく、性格が良いわけでもない。
そんな少女の前に、正体不明の狩人があらわれる。
村にはいない知性的で、物腰が上品で、そのくせセクシーな狩人にヒロインは惹かれていきます。
この、わたしでは一生なれないような魅力的な狩人が実は狼男で、それに気づいてもヒロインは狩人を相手に性に目覚めていくという、フロイト的な解釈を織り交ぜた傑作でした。

ホラー映画やSF映画などでは世界でも指折りの映画祭であった(いまは亡き)アボリアッツ・ファンタスティック映画祭(フランス)では、1985年、惜しくもグランプリは『ターミネーター』にさらわれましたが、次点ともいうべき審査員特別賞を受賞しています。
世界三大ファンタスティック映画祭といわれるシッチェス・カタロニア映画祭(スペイン)、ポルト国際映画祭(ポルトガル)では、グランプリを獲得しています。

監督のニール・ジョーダン(『クライング・ゲーム』『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』etc)は、世界に雄飛する足掛かりをこの作品で得ました。
サラ・パターソンは絶世の美少女で、世界中のマニアな人たちに大注目されましたが、メジャーな女優にはなれなかったようです。
ネットで調べてみても、ほぼ情報はなし。
現在も女優なのか、そうでなければいつ女優をやめたのかもわかりません。

ほぼ、わたしと同年齢のサラ・パターソン
存命であれば、いま、40代後半。
サラ・パターソンはどんな人生を送っているのか……。
などと感慨にふけるのが堪らないわけです。
山あり谷ありであろう(と勝手に想像する)人生は、いまだ観ぬ(永遠につくられることはないが)映画を夢想するような楽しさがあります。
悩み苦しむ姿(これも勝手な想像ですが)には共感も生まれます。

いやあ、映画って本当にいいですね……。
(おまえは、水野◯朗か?)


このような想像の余地が生まれるガンダム・シリーズのキャラクターの一人に、『機動戦士ガンダムZZ』のイリア・パゾムがいます。
アニメや漫画のバトルものは、出てくるライバルキャラはたいてい戦死するか、味方になるか。
なんらかの決着をつけないではいられない。
戦いの決着は盛り上がるので、そうしないではいられない。
それは、ガンダムシリーズも富野アニメも例外ではない。

そんななか、イリア・パゾムは主人公のジュドーとまったく互角の戦いを繰り広げながら、その戦いののち、物語から姿を消します。
アムロカミーユジュドーたちと戦った主要な敵は、そのほとんどが物語のなかで戦死していることを考えると、これはけっこうめずらしい。
主人公と互角にわたりあい、引き分けた強敵であるにもかかわらず戦死が確認されておらず、行方も安否も不明なわけですから、想像の羽も広がろうというものです。

イリア・パゾム
ガンダム世界でもめずらしい天然のニュータイプ(たぶん)。
バストのまわりだけをおおうタンクトップに、深いスリットの入ったミニスカートという際どいかっこうをした美女。
愛機は、一年戦争時代のゲルググを近代化改修したMS-14J リゲルグ

一年戦争MSが好きなわたしとしては、ゲルググ改修機がZZと実力伯仲というのが嬉しい。
天然のニュータイプがあっさり描かれているのも、新鮮味があって良し(たいがい、敵のニュータイプは主人公と因縁まみれで、それがときとしてくどくなる)。
そんなこともあって、昔から気になるキャラクターでありました。


ちなみに、『ZZ』後、『逆襲のシャア』前の時代を描いた漫画『ダブルフェイク アンダー・ザ・ガンダム』で、新生ネオ・ジオンに参加したレウルーラ級の艦長としてイリアは登場していますが、アニメ作品ではないので公式とは認められていないでしょう。


イリア・パゾムは、どのような生涯を過ごしたのでしょう。
サラ・パターソンはどんな人生を送っているのでしょう。





独自のニュータイプ概念 それは高松信司から富野由悠季への挑戦状?『機動新世紀ガンダムX』



『機動新世紀ガンダムX』のニュータイプ論は独特です。
独特のニュータイプ論には、高松信司監督の富野由悠季監督への批判があるのかなとわたしなどは邪推しています。


『ガンダムX』のアフターウォーにおいては、フラッシュシステムを稼働させることができる者のみがニュータイプ能力者と認められます。

フラッシュシステムは、宇宙世紀におけるサイコミュに相当します。
ビットやビットモビルスーツなどを制御できるシステム。

このビットやビットモビルスーツが戦争にはたいへん有用でした。

ビットモビルスーツにいたっては、ガンダムに乗るニュータイプ能力者が12機のビットモビルスーツ(Gビット)を操縦でき、12機もすべて自分が乗っているように自在に操縦することができるという代物です。
同時に、13機をなんの問題もなくあやつれるのです。
Gビットの性能は基本的に本体のガンダムと遜色なし。
つまりは、敵にしてみれば、ガンダムクラス13機で編成されたニュータイプ部隊と戦うも同然。
戦況を一変させる能力。
これは、すさまじい脅威です。


そのあまりの人間離れした強さゆえ、旧い人類を超えた「新しい人類」に人の目には映ったのでしょうか。
もともと、フラッシュシステムはビットやビットモビルスーツなどを稼働させる科学技術でしかありませんでした。
しかし、「フラッシュシステムをコントロールできる能力を持つ者のみがニュータイプ」という転倒した思想が生まれてしまいます。

「戦争の道具」として有能な者がニュータイプという思想です。


【人類の新たなる革新】ニュータイプ。
その壮大なニュータイプであるか否かの判断基準が、たんなる科学技術のフラッシュシステムを駆使できるかどうかにかかってしまったのです。

狭すぎる解釈です。
フラッシュシステムに対応できる人間だけが、ニュータイプであるという狭さ。

ニュータイプは異能力を持っている者のみがなれる。
ただし、異能力があればいいというわけではない。
異能者でもフラッシュシステムを起動させることができなければ、ニュータイプではないのです。

たとえば、フロスト兄弟は、兄弟間(のみ)のテレパシーで意思疎通能力や視覚等の感覚を共有できるツインズシンクロニシティの異能者で、2人の連携による戦闘力は絶大なものがありましたが、ビットモビルスーツをあやつるフラッシュシステムに対応できなかったという理由のみでニュータイプとは認められず、ニュータイプのできそこないというような(「カテゴリーF」Fはフェイク=にせもの)屈辱的な扱いを受けています。

異能者でなければ、なおさらニュータイプとは認定されません。


この考えを、月の巨大ドーム状施設D.O.M.E(ドーム)のシステムに(肉体をうしない)意識を組み込まれた人類初のニュータイプ(ファーストニュータイプ)は否定します。
「ニュータイプは幻想に過ぎない」と。

ニュータイプは人類の革新でもなければ未来をつくるものでもない。
ニュータイプという思想に縛られているかぎり未来はないとすら語ります。

あえてニュータイプを定義すれば「未来に希望を持って行動していく人間」みながニュータイプだといいます。
能力の有無は関係ない。
優劣も関係ない。
それが、あえて定義すればのニュータイプ。
しかし、それはあくまで「あえて定義すれば」であり、そもそも「ニュータイプは幻」なのです。
「特別な力などなくても、強い心を持って行動することが未来を切り開く力を生む」というのです。


幻想であるニュータイプ思想は、未来を切り開くには障害になるというのです。


じつは、これは富野由悠季監督へ苦言を呈しているように思えてしかたないのです。
ニュータイプにこだわる富野監督に。
(そうであったなら面白いという願望も、そう思わせる一つの要因でしょう)

『機動新世紀ガンダムX』は、1996年作品です。
それまでにガンダムのアニメ作品は、

『機動戦士ガンダム』(1979)
『機動戦士Zガンダム』(1985)
『機動戦士ガンダムZZ』(1986)
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1987)
『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(1989)
『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』(1991)
『機動戦士ガンダム F91』(1991)
『機動戦士Vガンダム』(1993)
『機動武闘伝Gガンダム』(1994)
『新機動戦記ガンダムW』(1995)

10作品が制作されました(映画オリジナル『逆襲のシャア』以外のオリジナルでない映画作品は省きました)。

『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』は同じ1996年開始ですが、7月からの発売です。
かたや『X』は、4月5日に放送開始で、『08』に先行しています。


このなかで、ニュータイプが主要なキャラとして登場するのは、すべて富野作品。
富野作品は、すべてニュータイプが主人公。

一方、富野作品以外では、主要なキャラにニュータイプは一人もいません。
『ポケットの中の戦争』は、ニュータイプ用ガンダムは出てきてもニュータイプは一人も出てこない。
『0083』は、ハマーンがゲストで1分ほど出てくるくらい。
『G』『W』の世界にいたってはニュータイプ概念が存在するかどうかも不明(漫画版『W』にはニュータイプ概念が存在。ゼクス・マーキスがニュータイプ)。

1996年時点では、アニメ作品におけるニュータイプ概念は富野監督専用といっていいでしょう。
そのニュータイプ思想に縛られているかぎり未来を切り開くことはできないと、ファーストニュータイプの口を通して高松監督は述べています。


高松監督は、『Z』『ZZ』『逆シャア』では富野監督のもと、設定や演出・演出補などで制作にかかわっています。
『Z』31話「ハーフムーン・ラブ」では初演出を経験しました(知る人ぞ知る、サラカミーユがデート?してアイスクリームを食べる回。けっこう不思議な演出が多いことでもちょっと有名→よろしければ、こちらを『サラ&カミーユ 若さゆえの過ちか? アイスクリームのコーンを捨てる!!』)。
富野ガンダムの『ポケットの中の戦争』では、演出(1、3、5話)と絵コンテ(3話)で作品にかかわっています。
『W』にいたっては、池田成監督が凝りすぎたすえに行き詰まり制作スケジュールが破綻し降板、29話?から後半半分を高松信司監督が代行しました(ただし、クレジットなし)。

歴戦の勇士といったところでしょうか。
ガンダムシリーズの申し子のような方なのです、高松監督は。
富野監督とも関係が深いその高松信司監督が、富野監督のこだわるニュータイプ思想を否定しているのです。


思えば奇妙なのです。
わたしの記憶違いでしょうか?
(記憶違いであったならすみません)
富野監督は『Z』以来、「戦争の道具」としてのニュータイプ能力を「バカみたい」と否定していた気がするのですが……。
それなのに、いったんガンダムの世界から離れたあとの『F91』『V』でも、やはり主人公はニュータイプ。
そして、ニュータイプたちがひたすら戦う。

富野由悠季監督は、ニュータイプ思想に呪縛されているのでしょうか?
魅力的な悪女のように、ダメと知りつつ惹かれていってしまうのでしょうか?
それとも、ニュータイプについてのなんらかの心境の変化があったのだろうか……。




ギレン・ザビIQ240 240ってギャグですか? 『機動戦士ガンダム』



ギレン・ザビの知能指数は240だそうです。
240!

いくらなんでも、ふっかけすぎでは?
(富野監督ですかね? この、無謀な設定をつくったのは)


IQは120以上で秀才。
140以上で天才です。

一説には、東大生の知能指数平均は120なのだそうです。
(ちなみに、IQ120は10人に1人、IQ130は50人に1人だそうです)

そして、ギレンは240。
国民平均のIQ100と東大IQの差は20。
国民平均のIQ100と天才IQ最小値140の差は40。
国民平均のIQ100とギレンのIQ240は、その差、140!

天才IQ最小値140と比較しても、100も上回っているのです。

リアリティーがなさすぎて、すごいことはわかるのですが、どうすごいのか実感が湧きません。


アインシュタインは、IQ172だそうです(ただし、IQテストを受けたことはなく、単なる推測とも)。
デギンに「ヒトラーの尻尾」と言われたギレンですが、そのヒトラーはIQ150(こちらも信憑性は不明。単なる推測の可能性が高い)。
IQ130以上は人口の2.2%という研究結果もあります。
IQ125以上は6.7%という、上記とは別の学者の研究結果も。
IQ120以上だとおよそ10%。


もちろん、知能指数測定が本当に正確なIQを割り出しているのかは、古今東西で物議をかもしています。
一説には、問題に馴れるなど訓練すればIQの測定値は大幅に上がるともいいます。
さほど上がることはないという意見も。

ただ、だいたいの知能指数をあらわしているようではあります。
(ただし、正確なIQは測れないという意見も専門家のあいだではかなり根強い)

IQ測定を一応信頼できるものとここではしておきましょう。
だとすると、IQ240は驚異的でしょう。

実際に測定されたIQの最高値はいかほどなのでしょう?
もしかして、IQ240に満たなかったりして……。

(信頼できるIQ測定だと、160程度が上限だという説もあります。
かたや、ギネスに認定された世界最高のIQはアメリカ人女性マリリン・ボス・サバントのIQ228だそうです。ただし、正確なIQ測定が可能なのかには論争あり。ギネスも、世界一IQの高い人物を認定するのは無意味で信憑性がないということから、世界一のIQ認定をいまはしていません)

信憑性がないかもか……ギレンのIQ240は自己申告だったりして。




エルピープル……エルドラド・ピープル(楽園の人)『機動戦士ガンダムZZ』



エルピープルの名前の由来は、「エルドラド・ピープル」だという説があります。
エルドラドとは、「楽園」や「黄金郷」のこと。
つまりは、「楽園の人」。

オフィシャルである『ガンダムファクトファイル』は、この説のみを紹介しています。
そこでこれが定説かと思いきや、ネットで念のために調べてみるとほかにも諸説。
・エルフ・ピープル
・エレ・ピープル
・レモンピープル(L(emon) pea ple)
・LP盤レコードプレーヤーの筐体(LP PULL[ボタン表記])

エルフは高い知性と文明をもった美しい妖精。
人間よりも神に近い高貴なイメージ。
『ロードス島戦記』のヒロインであるディードリットなどが有名。

エレ・ピープルは、すいません、なんのことだかわかりません。
(『聖戦士ダンバイン』のエレ・ハンムじゃないよな? 同じ富野作品だし。ちなみにエレ・ハンムは父が国王のミの国の王女で、のち、国王だった母方の祖父を継いでラウの国の女王になった13歳の女の子)

『レモンピープル』ですか……わたしは十代後半のころ『ホットミルク』『ペンギンクラブ』『コットンクラブ』だったからなあ……まあ、エロ漫画雑誌です。
(さりげなく、読んだことのあるエロ漫画雑誌をカミングアウト)

LPはCDの先輩格に当たる音楽プレーヤー。

ただし、ネットではほとんどが「エルドラド・ピープル」説をまず初めに紹介しています。
一応(絶対ではないものの)公式である『ガンダムファクトファイル』も「エルドラド・ピープル」説を採っています。
これが最有力説でしょうか?
(とあるサイトでは『レモンピープル』と断言していて、そのほかの説には見向きもしていないのが気になりますが。確証でもあるのでしょうか?)


このエルドラド、わたしはプルの名前のもとになったというのはありうる話だなと思いました。
その理由は、プルエルドラドに共通する光と影です。

エルドラドは、大航海時代(15世紀半ば~17世紀半ば)、主としてスペイン人がアンデスの奥地にあると夢想した黄金の楽園。
実際は16世紀ごろ、南米アンデス地方に存在したチブチャ文化を理想化しすぎたスペイン人によって産み出された「妄想の楽園」です。

チブチャ文化は、金の採掘と金細工技術に秀で、コロンビアの首都ボゴダの北57kmのところにあるグアタビータ湖地方では首長が全身に金粉をぬり儀式をおこなう風習がありました。
それだけのことです。
黄金郷からは程遠い。
しかし、この風習を耳にした貪欲な冒険者たちは、欲望のままに想像を肥大化させ、一攫千金の夢を胸にエルドラドを目指し、侵略をはじめました。

南米アンデス地方は征服者(コンキスタドール)に踏み荒らされ、現地の人たちは虐殺され、略奪され、しまいにはコンキスタドールのあいだで富の奪い合いが繰り返され、裏切りと暗殺と戦いのなか、多くの者が非命にたおれていきました。

エルドラドはもともと存在しなかったうえに、その妄念のために多くの人々が不幸になっていったのです。
楽園どころではない、それがエルドラドです。
光と影というより、影に一方的に寄った王国、それがエルドラドといっていいでしょう。


エルピープルは、自由奔放な明るい子でした。
甘えん坊で、物怖じしない。
天使のような女の子。

しかし、プルは、MSを上手に操縦するために人工的に生み出されました。
そして、妹のプルツーとの戦いで亡くなります。
戦争のために生み出され、11歳の幼さで戦争により落命する、それも妹の手によってです。


プルの光と影。
それはエルドラドの光と影にかさなります。

そしてそれは長女のエルピープル一人にとどまらず、クローンである妹たちにもまた不幸な運命が用意されていました。
プルツープルトゥエルブなど数多くの(少なくとも11人)プルの妹たちのほとんど、あるいは全員が戦いのなかで散っていくことになります。

本来は戦いの道具ではないニュータイプをたんなる戦いの道具とみなした「幻想」が、プルたちを不幸にしたのかもしれません。


プルは、そしてプルの妹たちは、「幻の楽園の人」だったのかもしれません。





ア・バオア・クーの名称の由来である幻獣ア・バオ・ア・クゥーはけっこう哲学的『機動戦士ガンダム』



『機動戦士ガンダム』最終決戦の地である宇宙要塞ア・バオア・クーの名は、インドの幻獣である『ア・バオ・ア・クゥー(A Bao A Q)』がもとになっています。

このア・バオ・ア・クゥー、けっこう哲学的な幻の生き物なのです。


ア・バオ・ア・クゥーは、インドのチトールにある「勝利の塔」に棲息しています。
チトールがどこかについては諸説ありますが、そのなかでも有力なのがジャイナ教の「勝利の塔」があるチトール。

ジャイナ教は、仏教とほぼ同時代の紀元前6~紀元前5世紀に創始された宗教です。
当初、ジャイナ教は仏教と同様に人々の「平等」を口説いて信仰が盛んでした(当時のインドの支配的宗教であるバラモン教は、神々につかえる聖職者を頂点とする「不平等」を旨とする宗教でした)が、歳月とともに衰え、現在ではおよそ信徒数450万人(インド全人口の0.5%未満)。

ジャイナ教は、厳しい修行、厳格な禁欲と同時に、徹底した不殺生主義で知られています。
ジャイナ教徒は、ほうきを手にし、口をマスクで覆ったかっこうを普段からしていますが、ほうきは虫を踏みつぶさないようによけるため、マスクは虫を吸い込まないためなのです。
暗くなってからは、虫が口にはいらないよう夕食は摂らない。
ジャイナ教にとっては、虫すらも「不殺生」の対象なのです。
そのジャイナ教の「勝利の塔」(異説はありますが)に住む幻獣の名前を踏まえたア・バオア・クー要塞で、人は一年戦争でも屈指の殺し合いをしたのですから皮肉なものです。


さて、ア・バオ・ア・クゥーです。
ア・バオ・ア・クゥーは透明で不定形、桃の皮のような感触のする肌をもった生き物。

棲息する「勝利の塔」は、屋上へとつづく螺旋階段を登りきると、その人は涅槃(ねはん)に達することができます。
ア・バオ・ア・クゥーは、最下層……螺旋階段の初めの段でいつもは眠っています。

涅槃を目指した挑戦者があらわれると、ア・バオ・ア・クゥーは目を覚ます。
ア・バオ・ア・クゥーは人間の影に敏感に反応し、人間の踵をとらえ、その人間に付き添い、「勝利の塔」を登っていきます。

この透明な幻獣は、一段登るごとに青味をおびた輝きを増していく。
屋上に達すると、完全な姿をあらわします。

しかし、涅槃に達した人間は影を失います。
人間の影をとらえることができなくなったア・バオ・ア・クゥーは、屋上に到達することができない。
あとわずかのところで、無情にも寄る辺であった人間の影に見放されてしまいます。
哀れにも、もう一歩のところで完全な姿になる願いをかなえられなかったア・バオ・ア・クゥーは、輝きを失い、苦痛にさいなまれ、苦痛から絹のすりきれるような微かなうめき声を発しながら、最下層まで転がり落ちてしまいます。
もとの透明になった「勝利の塔」の幻獣は、そこで次の登段者がおとずれるのをまた待つことになります。


どうでしょう?
挫折。
目前でついえる願い。
かなわぬ夢に焦がれる気持ち。

身につまされる人もいらっしゃるのではないでしょうか?
(わたしは、つまされまくり)

夢の成就を他人頼みでただ待つしかないというのもよくありそうです。
運頼みであるなら、わたしもしょっちゅうです。

アムロは、モビルスーツに乗り英雄になりました。
「ロボットを手にいれることができれば自分だって……」という願望を、ロボットアニメに投影している人もいらっしゃるでしょう。
『シンデレラ』のように王子様を、『聖闘士星矢』のようにコスモを、『ドラえもん』のようにドラえもんを、「あんなこといいな、できたらいいな」と求めてやまない人はけっして少なくないでしょう。
ア・バオ・ア・クゥーにとってそれは、涅槃を目指し「勝利の塔」を登りきる人間でした。


自分の能力や魅力では夢をかなえられない人間(わたしもその一人)の寓意が、ア・バオ・ア・クゥーなのかもしれません。
螺旋階段を転げ落ちるときの苦痛のうめき声は、夢をかなえられない我々人間の悔しさや絶望の慟哭と同じものなのかもしれません。
夢がかなう直前にそれがついえたときの我々の挫折感を、ア・バオ・ア・クゥーなら理解してくれるかもしれません。


思えば、宇宙要塞ア・バオア・クーの主であるギレンも、連邦への勝利を確信しながら妹のキシリアに背後から頭を撃ち抜かれて死んでいきました。

ニュータイプによる世界の変革を夢見た人たちは、それが達成されない現実に後々直面します。

シャアは、母親になってもらいたかったララァを自分のせいで戦死させてしまいました。

ハヤトは憧れのフラウ・ボゥと結婚しました……。


ちなみに、ア・バオ・ア・クゥーが「勝利の塔」螺旋階段の最上段に到達したのは、たった一度きりだといいます。


富野由悠季乱心!? クロノクル&コンティオ危うし『機動戦士Vガンダム』



コンティオは、重要なMSです。
コンティオの発展機であるリグ・コンティオは、ウッソの最大のライバルであるクロノクル・アシャーの最後の乗機でした。


最大のライバルは、ウッソが最後に戦ったカテジナという意見もあります。
なにしろ、ラスト2番目に戦ったのがリグ・コンティオクロノクル、ラストはゴトラタンのカテジナ
であり、そこから導かれる結論が、ウッソの最大の敵はカテジナだというのはうなずける話です。

ただ、富野由悠季監督も、ラストの敵をクロノクルにするか、カテジナにするか、終盤まで迷いに迷ったそうです。
意見を聞いたスタッフ全員が、ラスボス=カテジナであったため、クロノクルは『Vガンダム』の最後の敵にはなれませんでした。

ウッソの初恋の相手を最後の敵にするという、皮肉な運命の魅力に女王の弟クロノクルは敗れ去ったのかもしれません。

ただし、ラスボスでなかったとしても、MS操縦の技量や戦いのいきさつを勘案すると、わたしなどはクロノクルがウッソの最大の敵だったとも思えるのですが……。
(ただし、わたしがクロノクルびいきであることも、ここに記しておかねば卑怯者のそしりをまぬがれないでしょう。ガンダムシリーズ全体でも、『ポケットの中の戦争』のバーニィについで2番目に好きなキャラクターがクロノクルであり、『Vガンダム』においては圧倒的に1番好きなキャラクターなのです。ですから、公平な判断力が担保されているのかと問われれば、それには「疑問」と答えざるをえないでしょう)


いずれにしろ、『Vガンダム』において、きわめて重要なMSであることは確かでしょう。

このコンティオ、もともとは別の名が考えられていたといいます。

……コンマオ。
言いづらいのですが、逆さから読んでみてください。
ただし、女性は読まないほうがいいかも……。

つまりは、そういうわけです。

どうも、精神的に不安定だった富野監督が思いついたネーミングらしいのですが、その意図することに気づいたスタッフがなだめすかして監督の意思を翻意させたともいいます。
真実はわかりません。
ただの伝説かもしれません。
そうであるなら、救われるような、つまらないような。

ともかく、クロノクルの最後の愛機がリグ・コンマオになることはなかったのです。
危ないところでした。

ただ、姉であり母親代わりでもあるマリア・ピァ・アーモニアと恋人であるカテジナの女性2人にがっちりと運命を握られていたようなクロノクル最後の愛機に、リグ・コンマオの名はふさわしいのかもしれないなあ、とは冗談抜きで思わないでもありません。
もしかしたら富野監督も、酔狂からではなく、深い考えがあってコンマオの名をつけようとしたのかもしれません。


ただ、わたしには一つの疑念があります。
コンティオの名前です。

逆から読んでみてください。
ただ、こちらも、女性は読まないほうがいいかもしれません……。

そうです。
コンマオにくらべるとわかりづらいかもしれませんが、我々男子にはなじみのアレにわたしなどは読めてしまうのですが。


人生の最後に、恋人であるカテジナでなく、母親がわりの姉マリアを選んでしまうクロノクルですから、もしかしたらクロノクルには近親相姦の願望があったのかもしれない……その隠喩として、クロノクルの最後の愛機の名称にアレを暗示するコード(暗号)を埋め込んでおこうということでリグ・コンティオの名を冠した、そんな富野監督の秘められた意図があったのかもしれない、なんてことが?

まあ、それはないでしょうね。

ただ、富野監督の小説には、性的なものへのこだわりが散りばめられています。
執着といっていいくらいのこだわりが。
その富野監督ですから、もしかしたら……などと勘ぐってしまうのですが。


コンティオ
……逆から読むのは考えすぎでしょうかね?


シャアって、大人になってみるとちょっとあれですよね『機動戦士ガンダム』(&『セブンスターEX』CM)




子供のころにはひたすら憧れの対象だったが、大人になってみると「カッコよすぎだろ」とつっこみをいれたくなるものがある。


たとえば、CM。
1986年ごろ。
セブンスターEX(Seven Stars EX)のCM。

わたしは、そのころ中学3年生。
テレビ東京系で水曜の22:00~22:30まで放送していた『ヒッチコック劇場』(1986.10.1~1986.12.24、1987.1.7~1987.3.25)のなかで、よく目にしていたタバコのCMです。

商品のイメージ向上をはかるため、現実から遊離した「カッコよすぎる」要素がつぎつぎにぶち込まれてくる。

出演する男女は5人の白人。
みな、絶世の美男・美女ばかり。
世界的に通用しそうなモデルばかり。

そんな5人が、ニューヨークのインテリアデザイン会社に勤めている。
ニューヨークという場所もインテリアデザイナーという職業もすかした設定ですが、会社に勤めている5人全員が自分の恋人には紹介したくないような美男・美女ばかりという現実感のなさ。

苦みばしった渋すぎる中年の美男子。
自信に満ちた、さわやかな笑顔がまぶしい好青年風の美男子。
ひげを豊かにたくわえ、恰幅もよい、貫禄のある初老?の美男子。
眼鏡をかけて真面目そうだが、眼鏡外すとシャレにならなそうな青年の美男子。
美女とはいえないかもしれないが、きりっとして凛々しい面立ちをしたハンサムな女性。

……リアリティーまったくなし。
ここに、女性ボーカルのかっこいいジャズ(イーディー・ゴーメ『ギフト』)がBGMとして流れるわけです。

やりすぎでしょ。

主役の渋い中年美男子などは、デスクに向かい右手でペンを走らせながら、左手の中指・人差指・親指にタバコを手挟みつつ、ときにタバコを口に運び、喫う。
仕事を一休みして、高層ビルにあるオフィスの窓からニューヨーク・マンハッタン(たぶん)を漫然と見下ろし、やはりタバコを一服。

そこには、自分への自信からくる余裕がみなぎっていた。

かっこいい。
中学生のときは、こういうふうな大人になってみたいとおもった。
(もちろん、なれなかった)


しかし、大人になって思い返すと、「やりすぎだよな」という『笑い』も生まれる。
いまでも、とてつもなくかっこいいとはおもいます。
ですが、同時に、かつてのような憧れ一辺倒ではない、ただただ、かっこいいばかりで頭使ってないバカっぽさをも感じてしまう。

ウソをつくには、何割かの真実をまぜこむのが要諦らしいですが、このCMにはリアリティーのかけらすらない。
わたしは、そうおもうようになりました。
(でも、しびれるくらい、いまでもかっこいいけど)


これって、【あの人】にも共通しているような。
……赤い彗星。

『機動戦士ガンダム』のシャア・アズナブル
小学生のころのわたしにとってシャアは、ひたすら、かっこよかった。

凄腕のパイロット。
美男子。
血筋がよい。
頭もよし。
品がある。
物腰が優雅。
名声にも恵まれている。
口走ることもかっこいい(ヘンな言葉遣いだけど)。
などなど……。

たしかにアムロに追い抜かれて劣勢に立つようになり、アムロと激戦を展開するララァには「大佐、邪魔です」などといわれてもいますが、それぐらいなら御愛嬌。

わたし個人としては、ガルマを守り切れなかったということで謹慎させられていたとき(ギレンのガルマ追悼の大演説)の酒場での大きすぎるサングラスが、「あれはない……」ともおもっていますが、個人の好みかもしれず。


しかし、絵に描いたような度のすぎたかっこよさが、どうも、大人になってからはカスミをつかむようなあいまいな感じで……。

現実感が薄い。

シンパシーを持ちにくいんですよね。


当初は、自分のなかでのガンダムキャラNo1だったシャアも、まず、なさけないところが他人事とはおもえない『ポケットの中の戦争』のバーニィに抜かれ、ついで、基本的に優秀だがライバル(ウッソ)に完敗した軍人にしては優しすぎる『Vガンダム』のクロノクルにも抜かれ……。

いま、シャアは、3~10位前後あたりでしょうかね。
バーニィクロノクルが1、2であることは確かなのですが、3位以降は時期によって移り変わりがはげしく、シャアも上位にくることはありますが、いつもというわけではない。


たしかに『ガンダム』を観ると、シャアのかっこよさは只者でなく、心惹かれるのですが、見終わったあとにシャアへの情熱が長続きしないんですよね。
生の人間の感覚がしない。

まるで、この世ならぬ美しさではあっても印象が希薄な妖精のように。
……妖精にしては、へんに野心でぎらぎらしていますけどね。



サラ&カミーユ 若さゆえの過ちか? アイスクリームのコーンを捨てる!!『機動戦士Zガンダム』



カミーユサラ・ザビアロフがアイスクリームのコーンを捨てた。
それは、わたしにとって衝撃でした。


1985年10月5日 土曜日。
午後5時30分~6時のあいだ。
Zガンダム』31話 「ハーフムーン・ラブ」においてのことです。


サラはシロッコの命令で、月のフォン・ブラウン市に爆弾を仕掛ける。
港に停泊するアーガマを爆破するため、港に隣接する公園に爆弾を仕掛けます。
その公園で、カミーユサラを見かける。
25話「コロニーが落ちる日」で、2人には面識がありました。
カミーユは、サラをティターンズから引き離そうとする。
サラには健全なところがあり、スペースノイドを仮借なく弾圧するティターンズにいてはいけない女の子だとカミーユは思っていたのかもしれません。
普通の女の子に戻って欲しかったのです。

そこで、カミーユは説得をはじめる。
そのさいに、サラの心をほぐすためでしょうか、カミーユは公園内で販売しているアイスクリームを買いにゆきます。
逆三角錐のコーンの上に、ドーム形の半円のアイスクリームが載せられた、デパートなどに良くあるアレです。

2人は、公園のベンチに座り、アイスクリームを舐めながら、
「あたし、こんな風にして食べるのはじめて」
「貧しい青春なんだ。みんな、やってるぜ」
などと、他愛のない15歳(サラ)と17歳(カミーユ)の会話をします。
本来は敵同士なのですが、やはり、サラには軍人になり切れない【普通の女の子】の部分が多分に残っているのです。


このあとです。
サラカミーユはアイスクリームを舐め終わり、ベンチから立ち上がる。
そして……。
コーンをくずかごに捨てる。
なんのためらいもなく、当然のように。


食べないの!?

甘いアイスクリームとからみ合い、絶妙な味のハーモニーを醸しだす、あの香ばしいコーンを!
柔らかなクリームとの対比がアクセントになり、それが心地よい食感をもたらす、パリパリに堅いあのコーンを!

ジェリドがそのさまを目にしたら、ウンチクをかたむけて二人を説教するでしょう。
(ヒント:『美味しんぼ』)

アイスクリーム抜きで、香ばしい味わいのコーンだけでもイケるというのに!


『Zガンダム』本放送当時、わたしは中学2年生でした。
幼稚園に入る前から、小学校中学年のころまで、地元のデパート屋上のアイスクリームがわたしのごちそうでした。
屋上は小さな遊園地になっていて、デパートでの買い物の帰り、母に連れられてアイスクリームをよく食べていました。
もちろん、コーンも食べます。
バリバリぼりぼり、噛みごたえよく、甘さを引き立たせる香ばしさも堪らない。


その思い出が鮮明だっただけに、サラカミーユのコーンぽい捨てにはびっくり。

それは、わたしだけではなかったようで、何ヵ月後かのアニメ誌(たぶん、当時、愛読していたアニメ雑誌『OUT』)にも、「コーンは食べるものなんじゃないの? 普通、食べるでしょ」みたいな旨の投稿が複数載せられていました。
紙面には制限があるので、一つの話題にかんして、しかもコーンぽい捨てなどという小さなできごとについて複数の投稿が掲載されるのは、なにげに凄いことなのです。
それだけ、この「コーンぽい捨て」は当時、(一部のファンの)熱き血潮をさわがせた問題のシーンでした。


ただ、比較的最近、あれは食べられないコーンだったのかもしれないなとも思うようになりました。
プラスチックなどでつくられた。
実際、アイスクリームの見本のコーンは、とうもろこしでなく、プラスチックかなにかの硬い素材でできています(しかも、凶器になりそうなくらい重い)。

食文化は変わります。
もしかしたら、アイスクリームを盛るうつわとしてコーンはその外見だけ残ったのであり、食べるという機能については廃れてしまったのかもしれません。
とうもろこしの供給難のさいに、アイスクリームのコーンがダミーに代えられたというような事情があったのかもしれません。
ただ、外見だけは伝統を守りたいということで、逆三角錐の形状は生き残ったというような事情が。

それとも、「アイスクリームのコーンは食べない」文化がどこかにあったのでしょうか?


いずれにしろ、女の子とアイスクリームをいっしょに食べる経験のついぞなかったわたしには、デートとアイスクリームの組み合わせから連想するのは、サラカミーユの他愛のない平和な会話とクリームを舐めているじつに幸せそうな二人の顔、そして放物線を描いて?捨てられるコーンの勇姿?だったりするわけです。