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クロノクル・アシャーはマザコン? 母親代わりの「アマルテア」(&「アドラステア」)『機動戦士Vガンダム』



木星の衛星たち


ザンスカール帝国の艦艇は、木星の衛星の名をもつものが多い。

カリスト 木星の第4衛星
アマルテア 木星の第5衛星
シノーペ 木星の第9衛星
リシテア 木星の第10衛星
アドラステア 木星内部衛星群の衛星のなかで内側から2番目の軌道にある衛星



名前はギリシア神話由来です。
木星は、ローマの主神ユーピテル(英語名:ジュピター)をもとに命名されました。
ユーピテルはギリシア神話の主神ゼウスと同一視されていますので、木星の衛星はゼウスにちなんで名前がつけられています。

カリストー……ニンフ、ゼウスの愛人、ゼウスとのあいだにアルカスを産む
アマルテイア……幼子だったゼウスに乳をあたえて育てた山羊、あるいはニンフ
シノーペー……ゼウスに愛されたが、ゼウスに約束させて処女を守った
リシテア……ニンフ、ゼウスの愛人
アドラステイアー……ギリシア神話の女神、ゼウスとアナンケーの娘

ニンフとは、ギリシア神話の女神(精霊)のことです。




アマルテイア……ゼウスに母乳を与えた山羊(あるいは、ニンフ)


ザンスカール帝国の建国者であるフォンセ・カガチが「木星帰り」(木星船団公社に所属していた)であるため、木星の衛星から艦艇のネーミングを拝借したのかもしれません。



しかし、わたしは別の見方をしています。
クロノクルと姉マリアにちなんだものではないかと。

ゼウスの幼児のときの逸話があります。
全宇宙を統べる神々の初代の王は天空神ウラノス。
2代目の王は、ウラノスの末子クロノス。
3代目の王は、クロノスの末子ゼウス。

この後継はすんなりいったわけではありません。
むしろ、修羅の道でした。
ウラノスには醜さを嫌って自分の子供たち(クロノスの兄たち)を奈落の底に幽閉するなど横暴な振る舞いがあり、子供を幽閉されたウラノスの妻ガイア(クロノスや醜いため幽閉されたクロノスの兄たちの母)はウラノスを恨み、クロノスをけしかけました。
それに応じ、クロノスは父ウラノスの陽物を去勢し、王位を奪う。
王となったクロノスは、今度は自分が子供たちに王位を奪われるのではないかと疑心暗鬼になり、妻レアとのあいだに産まれる子供たち(ヘスティア、デメテル、ヘラ、ハデス、ポセイドン)をつぎつぎと丸呑みしていきました。
(のち、成人したゼウスによってゼウスの姉弟はクロノスから解放、クロノスは奈落の底に幽閉)
そこでレアは、ゼウスが産まれたとき策を講じ、赤子といつわって石を呑み込ませました。
そして、ひそかにクレタ島にゼウスを逃します。
このとき、母親の代わりになって自らの乳をあたえゼウスを養育したのが山羊(あるいは、ニンフ)のアマルテイアだったのです。




マリア……クロノクルにミルクを与えた母親代わりの姉


一方、マリアとクロノクルの姉弟。
マリアはザンスカール帝国の(名目的な)女王。
クロノクルは、女王の弟にして、ザンスカール帝国の艦隊司令の一人。

マリアとクロノクルの両親は離婚し、二人を引き取った親は育児放棄。
マリアは9歳年下のクロノクルを養育するため、15歳を過ぎたころにはみずからの身をひさぐようになりました。

クロノクルの糧は、マリアの肉体によってあがなわれていたのです。
下品な言い方をすれば、マリアの乳が男たちに吸われることにより、クロノクルは日々ミルクとパンを口にすることができたわけです。

自分の乳をあたえゼウスを養った山羊・精霊のアマルテイアに似てはいないでしょうか。

そのクロノクルが艦長となって乗艦していたのが、アマルテア級1番艦の「アマルテア」。
これは偶然?




姉さん、マリア姉さん、助けてよ、マリア姉さん……


自分を育ててくれた母親代わりの姉マリア。
クロノクルが亡くなる直前に心のうちで叫んだのは、恋人のカテジナの名でなく「マリア姉さん」でした。

姉さん、マリア姉さん、助けてよ、マリア姉さん……

わたしには、なにやら、マザコンめいたものをクロノクルの最期からは感じるのですが……。



ちなみに、女性から忌み嫌われるマザコンですが、最近では、マザコンを肯定する女性もちょっとずつ増えはじめているとか(本当かね?)。
過剰なものはともかく、軽度のマザコンならOKなんじゃないかと。
母親を大事にできない男が妻や恋人を大事にできるわけがない、と。
また、高齢化時代、母親を粗末にするのはなにかとよろしくない、と。




アドラステイアー……ゼウスを母親代わりとなって育てたニンフ


また、アドラステイアーもいわくつきなのです。
アドラステイアーは、上記のアナンケーとのあいだのゼウスの娘のほかにもう一人、ギリシア神話に登場します。
アマルテイアがゼウスに乳をあたえたのとは違うゼウス幼児期神話に出てきます。
その異伝では、クレタ島で赤子のゼウスを母親代わりとなって育てるのが、イーデーとアドラステイアーのニンフの姉妹なのです。




「アドラステア」と「アマルテア」


そして、クロノクルが艦隊司令として座乗した艦艇の名は二つ。
「アドラステア」と「アマルテア」。
そのもとになっているアドラステイアーとアマルテイアーは、二人ともゼウスの母親代わりの役割を担っているのです。

これは偶然なのでしょうか?
(こういうときって、往々にしてただの偶然ということがあるんだよなあ)




マリアの胎内


アドラステイアーとアマルテイアーを母親代わりという共通性からマリアに結び付け、それらにちなんだ艦艇にクロノクルを乗艦させたかった。
そこで、まずクロノクルが艦隊司令として座乗する艦艇を「アドラステア」と「アマルテア」と命名。
そして、それらと整合性をたもつためにザンスカール帝国のほかのいくつかの艦艇に同じ木星の衛星にちなんだ名前をつけたのではないか、などとわたしは愚考しています。

下衆の勘繰りかもしれませんが、アマルテア=マリア(アドラステア=マリア)のメタファー(隠喩)が隠れているような気がしないでもなく……。

もしかしたらクロノクルは、アマルテア(およびアドラステア)に寓意されるマリアの胎内で、戦争のあいまにひと時の安らぎを得ていたのかもしれません。




ルイン・リー……クンタラ、差別される下層階級の人たち『ガンダム Gのレコンギスタ』



下層階級・クンタラ


クンタラとは、『Gのレコンギスタ』(2014)のリギルド・センチュリー(R.C.)世界において差別される下層階級の人たち、およびその末裔の人たちのこと。



クンタラに属する人物は、『Gのレコンギスタ』の主要キャラクターにけっこういます。

ルイン・リー……主人公ベルリ・ゼナムの最大のライバル
マニィ・アンバサダ……ルインの恋人であり、ノレドの親友(好きなルインの気を引くため、クンタラを装っている説もありますが)。
ノレド・ナグ……ベルリの恋人?で、アイーダ・スルガン(ベルリの姉)とならぶ本作のヒロイン




クンタラとは?


クンタラは、劇中で蔑称として用いられています。

富野監督によれば、宇宙世紀末期に食糧危機におちいった人類が食糧として人を食べた、その食糧とされた人たちの末裔がクンタラだそうです。
しかし、当初から劇中でそのことを明らかにする予定はなかったとのこと。
実際、劇中、突っこんだ具体的な説明はありませんでした。

富野監督自身も、なぜクンタラの人たちが食糧にされたのか知らないとのこと。
(設定を考えていないのか、あるいは、あえて言わないだけなのか?)
人が人を食べるという異常な宇宙世紀末期の混沌も、いっさい説明はありません。

おなじクンタラ出身の部下にルインが、
「クンタラとはなにか?」
と問い、
「今世紀以前、人に食われるような劣った人という意味だったと聞きます」
というセリフが、本編における数少ない(唯一の?)クンタラの説明でしょうか(第7話)。




人が人を食べる


飢餓で極限状態に置かれたとき、人が集団で死体や殺害して人を食べるという事例は歴史上たしかにあります。
パプアニューギニアでは太平洋戦争敗戦時の逃亡のさなか、極限の飢餓のなかで、くじ引きで外れを引いた二名の日本人兵士を射殺、部隊のものたちがその遺体の肉を食べる事件が実際に起きています(ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』1987)。
もちろん、これは一例にすぎません。
ただ、よほどの異常な状況のもと、こっそりとです。
人を食うというのは、いかな理由があるとはいえ禁忌に属する行為なのです。
知られてはまずい。
それだけ特殊なことなのです。




カーリー……インドの憤怒の女神


クンタラは、クンタラの魂の安住の地「カーバ」を守護する守護神「カーリー」を信仰しています。
(ルイン最後の愛機「カバカーリー」はこの「カーバ」と「カーリー」から来ています)

この「カーリー」は、インドの女神カーリーがそのもとでしょう。
カーリーは、シヴァ神の妻である女神パールヴァティ(あるいは女神ドゥルガー)の憤怒相。
普段は心優しいパールヴァティー(ドゥルガー)が激怒すると、理性を失い、血と殺戮を好む戦いの女神へと変じてしまうのです。
(こわい! 穏和な女の人が怒るとホントウにこわい! うぅ、許して……は? 夢か……みたいなこわさ)
シヴァ神はインドの神々のなかでもとくに強大な神ですが、怒ったときの奥さんにはもうお手上げ状態になってしまいます。

(ちなみに、『3×3 EYES』(サザンアイズ)のヒロインであるパイの正体はパールヴァティー。
パイも、二重人格(多重人格?)。
『3×3EYES』の最後にして最強の敵はシヴァ)

(魂の安住の地「カーバ」は、イスラム教最大の聖地であるメッカのカーバ神殿がもとでしょう。
こちらは、イスラム的)

また、クンタラという語感もインドめいているような。




不可触賎民(ふかしょくせんみん)……インドの最下層に位置づけられる被差別民の人たち


もしかしたら、インドの不可触賎民がクンタラのヒントになっているのかもしれません。
不可触賎民の人たちは、インドの最下層に位置づけられる被差別民。
ただし、不可触賎民のなかにも高い低いという序列は存在します。
紀元100~300年ごろにかけて不可触賎民の概念は生まれ、5~6世紀にかけてインド社会に定着したそうです。
現在、およそ2億人と推計。

マハトマ・ガンディー(1869~1948)は、不可触賎民の人たちをハリジャン(神の子)と呼称しました。
ヒンドゥー教の輪廻転生(りんねてんしょう)の考えをベースに、現世で苦しんでいる不可触賎民の人たちは、それゆえに来世で必ず良い生まれ変わりを迎えるだろうという考えからです。

しかし、それを偽善的と嫌う不可触賎民の人たちも多いそうです。
ガンディーたちはともかく、インド社会全体が良心に目覚めたかのような印象を外部にあたえるのはよろしくないというのです。

1950年のインド憲法で差別は禁止されました。
雇用、入学、奨学金などにおいて一定程度の優遇を制度として認められ、有力政治家も幾人も誕生していますが、根強い差別意識は残り、殺傷をともなう憎悪犯罪の対象になったり、また貧困率も相当に厳しかったりするそうです。

いまだに根強いカースト制。
その差別の構造に、クンタラの置かれている状況はちょっと似ているのかもしれません。




クンタラのルイン・リー


わたしはルイン・リー視点による、クンタラへの差別を乗り越えようとする物語を、もっと突っこんだかたちで観てみたいと思ったのですが……。
差別される者が差別を打破する物語は、富野監督お手のものではないでしょうか。
TVシリーズ(2014)をベースに新作カットを大幅に追加するという『Gのレコンギスタ』の劇場版(2017年からのはずが遅れに遅れ、いまは2019年から展開予定とのこと)で、実現しませんかね。

それとも、あまりにも重すぎる内容になってしまうでしょうか。
そのために、富野監督はクンタラについてお茶を濁したのでしょうか。




ララァ・スン 富野由悠季初期設定では【白人&金髪】だった『機動戦士ガンダム』



ララァ・スンは白人&金髪になるはずだった


ララァ・スンは、富野監督の初期構想のなかでは「白人&金髪」だったといいます。
しかし、脚本家の「ニュータイプが出てくるならばこういう人たちから」という意見により、インド系の少女として再構想されたのだそうです。
(なぜ、ニュータイプがインド系なのかはわたしにはわかりません。ヨガや瞑想などの影響でしょうかね? それとも仏教発祥の地だから?)

2000年代、ムックか雑誌で「ララァは富野監督の当初の案では金髪の白人だった」という記事を読みました。
誌名は忘れました。
ネットで調べてみると、脚本家(わたしの記憶では安彦良和だったのですが)の意見により、金髪の白人からインド系に変更されたのは間違いなさそうです。

富野監督の頭のなかでは、初め、ララァは金髪の白人だったのです。
セイラのような?
そして、おそらくは、シャアとセイラの母親のような?




マザコンのシャア……「ララァ・スンは、私の母になってくれるかもしれなかった女性だ!」


シャアは、『逆襲のシャア』(1987) でマザーコンプレックスであることが周知のものになりました。

アクシズの地球への落下により、シャアとアムロの生命が尽きようとしていたときのことです。
シャアはアムロに、

ララァ・スンは、私の母になってくれるかもしれなかった女性だ!

と絶叫するのです。
まるで、それが遺言であるかのように。
このセリフは、生前、最後のシャアの言葉です。
このあと、そのまま続けて「そのララァを殺したお前にいえたことか!」とアムロに言い放ち、シャアの姿は画面から永遠に消えてゆきます。

そのアムロが、

「お母さん? ララァが?」

と戸惑っていたのが印象的でした。
その戸惑いは、我々、視聴者のものでもあったでしょう。
(ちなみに、この言葉も生前のアムロ最後の言葉です。
このあとすぐ「うわ!」という絶叫とともに、アムロの姿も画面から永久に消えてゆきました)

いまでこそ、ファンのあいだでシャアがマザコンであることは知れ渡っており、それがシャアをからかう一つの定番にもなっていますが、公開時、これはけっこう衝撃的でした。
シャアの女性に対する姿勢は、成熟した大人の男のそれと思っていたところ、女性に(ララァに。もしかしたら、ナナイ・ミゲルにも)母親を求めていたのですから。

当時のアニメ雑誌『OUT』には、比較的長文の批評を掲載する読者投稿のコーナーがありました。 
そこに、シャアがマザーコンプレックスであったことへの非難といいましょうか、怒りといいましょうか(あるいは失望か)、読者からの詰問するような強い批判が寄せられていました。
それに賛同する人は、けっして少なくはなかったでしょう。

この『逆襲のシャア』から、シャアにはマザコン属性が抜きがたくついてまわるようになりました。




褐色の肌のララァ、白い肌のシャア


ただ、違和感はありました。
白い肌のシャアが、褐色の肌のララァに母親を求めていたことに。

そのころ、高校一年生であったわたしは、親子関係というものを血と遺伝で考えるようなところがありました。
単純に、肉体的な継承性を親子の基準にするような。
(いまでは、血のつながりや容姿などではなく、精神的なつながりが家族にとってはもっとも大事なものだとおもっていますが)
その基準からすると、白人の女性に母性を求めるのが自然の流れのように思えたのです。




ララァは、白人金髪のセイラ似の女性になるはずだった?


しかし、ララァが金髪の白人女性であったと想定するなら、違和感はすっきりします。
ララァの肌の色を褐色から白へ、髪の色を金へと置き換えてみてください。
なにやら、セイラに似た女性にならないでしょうか?
(なんとなくでも)
(ちょっと無理なこじつけでしょうかね?)

富野監督は、最初の『ガンダム』の時点で、シャアとララァとの関係はマザーコンプレックスを軸に考えていたのかもしれません。
富野監督の頭のなかでララァが金髪の白人だったのは、セイラを意識していたのかもしれません。
より正確にいえば、セイラが面影を受け継いでいる(かもしれない)母親を。
なにも、『逆襲のシャア』にいたってシャアがララァに母性を求めていたというような唐突なものではなかったのかもしれません。
富野由悠季の心のうちでは。

そんなふうにも思えるのです。
なんとなく。
ただ、なんとなく。
……やっぱり、違うか?



ディアナ・ソレル……「ディアナの本当の初恋の相手が、きっとロランに似ていた少年だったからだろう」(「∀の癒やし」富野由悠季より)『∀ガンダム』



『∀ガンダム』のラスト……ディアナとロラン


なにかと謎の多い『∀ガンダム』(ターンエーガンダム)のラスト。

ディアナ・ソレルは月の女王。
ロラン・セアックは、月に住むムーンレイスの下層階級出身の17歳の少年で、ディアナに心酔している∀ガンダムのパイロット。
(女装すると、とんでもない美少女に)



ラスト。
ディアナとロランは、小さな山小屋で二人きりの生活をはじめています。
どうして、二人は、ともに住んでいるのでしょうか?

ディアナは、ナノマシンによる冷凍睡眠により、覚めては眠り、また覚めては眠りにつくのを繰り返し、およそ1000年もの長きにわたり生命を保ってきました。
(外見は、19歳)
しかし、それゆえ、寿命はあまり残されていない。
そこで、月ではなく「終の棲家」(ついのすみか)を地球に定めました。
ともに暮らすのは、ロラン一人。




ディアナとロラン……結婚相手か臣下か


ロランはディアナに臣下として仕えているのか、それとも結婚したのか。
(結婚説のなかには、実際は主従の関係ですが、世間への体裁として表向き結婚している形式をとっているという説もあります)
これは、意見がわかれています。




結婚否定説、優勢?


圧倒的に前者の意見のほうが多いようです。
わたしも、しかり。
なにしろ、物語のなかで、ディアナとロランにまつわる恋愛エピソードがまったくありません。
その萌芽となるような、恋愛をにおわせる描写もなし。

なかには、結婚していると力説している方もいました。
知恵袋においてです。
その方は、「なぜなら、二人とも左手薬指に指輪をはめているから」というのです。

これを読んで、これは物凄い発見だなと思いました。
いままでの定説をくつがえす、あまりにも有力な発見です。

ただし、どうも、これは勘違いなのかな、と。
わたしは画面で指輪を確認できませんでしたし、知恵袋でも、ディアナの指輪を話題にしている人はいても、ロランの指輪に言及している人はほかにいません。
「ディアナは左の薬指に指輪していたけど、ロランしてなかったし」と明言している方すらいます。

もしかしたら、二人が男女として結ばれていてもらいたいというその方の願望が幻の「ロランの指輪」を見させたのかな、と。
わたしにも、その気持ちはわかります。
下層階級出身であるロランが、憧れの月の女王であるディアナと夫婦になる。
ロランのディアナへの崇拝と憧憬が混じりけなしにまっすぐであったために、そうなってくれたらいいなあ、とわたしも最終回を観ながらそう思っていました。
純朴な少年がお姫さまへの想いを成就させるというのは、かなわぬ片想いに身をやつした人たちには、現実でかなえられなかった恋愛の、せめてものちょっとした救済になるのではないでしょうか。

しかし、ディアナとロランのあいだに、なんら恋愛を類推させるものはなく、女王さまの身の回りの世話をロランがしているのだな、という結論に行きつくのにそう長い時間はかかりませんでした。
願望は願望として、いままでの経緯からするとディアナ&ロランはありえないだろうなあ、と。

二人の左手薬指に指輪があったという記述を目にして「そうだったのか!」という喜びが広がりましたが、結局は、どうも、「ロランの指輪」は「どこかにあるユートピア」(しかし、遥かな世界すぎて誰も行けない)ガンダーラのような幻だったようです。

(ただし、結婚説に関し気になる情報が。
オフィシャル設定ブックのようなものに「ロランとディアナ婚約」と書いてある、というブログが(『日記 ∀ガンダム ロラン・セアックとディアナ・ソレルの結婚』)。
出典元やらなにやらがいっさい不明ですので確証にはなりませんが、もしそれがオフィシャルのもので、そこに婚約のことが書かれているのであれば、結婚説(婚約説)に大きくかたむくことになるでしょう)




ディアナの本当の初恋の相手が、きっとロランに似ていた少年だったからだろう


ただ、ディアナにロランへの恋愛めいた感情があったのかな?という可能性を示唆する発言も。
富野監督の発言です。
富野監督の著書『∀の癒やし』でのこと。


「(ディアナは)最後の自分を看取ることをロランに頼んだ。
許したのではない。頼んだのだ。
なぜなんだろう?
それは、永遠の疑問ではない。簡単な理由だ。
ディアナの本当の初恋の相手が、きっとロランに似ていた少年だったからだろう。
人間などというものは、そんなものなのだろうとおもう。
それは、つまらないことなのだろうか?
そうではないと伝えたいのが、『∀』という物語なのだ」


富野監督は、発言が右に左に、上に下に、前に後ろに大揺れに揺れる人なので、その場の思いつきの発言である可能性もあり、どこまで信じていいのやら不明ではあります。

しかし、一度でもそのような発言をしていたのであれば、ディアナのロランへの恋愛感情(あるいは、それに近い感情)はあったのかな、という推論の種にはなります。
種が育って実をつける保証はありませんが、種がないよりはその可能性はずっと高い。
種がなければ0、種があれば0よりは上です。

しかし、初恋の相手に似ているロラン……。
これは、なにげに『∀』ファンには衝撃の発言なのではないでしょうか。

初恋の相手に似ているから、ロランと残り少ない人生をいっしょに暮らしたいということですよね?
これって、かなり結婚に近いのでは……?



最終話に明確な答えはないと富野監督はインタビューで発言しているそうです。
各人の想像にお任せということなのでしょう。



わたしは、けなげなロランのためにも、ディアナの初恋の相手がロランに似ているという言葉を信じたいものです。
(しかし、富野監督はけっこう出たとこ任せの発言するからなあ)




少年たちの純粋でまっすぐな生き方が40代後半の胸にはちょっとイタい『新機動戦記ガンダムW』(&『聖闘士星矢』『鎧伝サムライトルーパー』)



『聖闘士星矢』『鎧伝サムライトルーパー』『新機動戦記ガンダムW』


30代、40代になると、凛々しい少年たちにノスタルジーを感じるようになりました。

かつて、自分がなろうとして、おそらくはなれなかった凛々しい少年。
うだうだしていて煮え切らないわたしでは、とうていなれなかった凛々しい少年。

たとえば、『聖闘士星矢』(1986~89)の5人の少年たち。
華やかで、ときにありえないくらいキザなのですが、それがさまになってしまうペガサス星矢ドラゴン紫龍アンドロメダ瞬キグナス氷河フェニックス一輝たち。

たとえば、『鎧伝サムライトルーパー』(1988~89)の5人の少年たち。
ひたむきで、まじめすぎるほどにまじめなのに、それがなにゆえにか色気すら感じさせる烈火のリョウ水滸のシン金剛のシュウ光輪のセイジ天空のトウマたち。

この5人の少年たちの系譜につらなるガンダム作品が『新機動戦記ガンダムW』(1995~96)です。
ヒイロ・ユイデュオ・マックスウェルカトル・ラバーバ・ウィナートロワ・バートン張五飛(ウーフェイ)たち。




池田成……『サムライトルーパー』と『ガンダムW』で降板


『星矢』『サムライトルーパー』ともに大ヒットして、91年ごろまでつづいた美少年アニメブームを牽引した両作品。
そのうちの『サムライトルーパー』にあやかろうとしたのか、『ガンダムW』の監督は『トルーパー』の前半2クールの監督であった池田成。

『トルーパー』では、鎧が脱着できるアクションフィギュア「超弾道」シリーズを売り込むため、玩具メーカーのスポンサーが必殺技のシーンで「超弾道」の文字を画面に入れるよう要求、この無体な要求を拒絶したことにより2クールで降板させられた池田成が再び、サンライズの5人の美少年を主人公にした物語の監督に起用されました。
リョウたちだけでなく、監督もリアルの世界で必死に戦っていたわけです。
(ちなみに、『ガンダムW』では話づくりに凝りに凝りすぎたためスケジュールが破綻し、前半26話で降板しました。『トルーパー』のときといい、妥協しないのが池田成監督の性分のようですね。
さらにちなみに、後任は『ガンダムW』の後番組『機動新世紀ガンダムX』を監督する高松信司監督)




『ガンダムW』の少年たちは演劇的?


わたしは、『ガンダムW』は同じサンライズ作品・池田成監督の『トルーパー』よりも『星矢』に似た印象をもっています。
『トルーパー』の少年たちの描写がひたむきでリアルなのに対し、『星矢』の少年たちはうるわしくカリカチュアされているイメージ。
『星矢』のほうは現実的ではないのですが、『W』もどちらかといえばそちら寄りなのかなあという印象です。
少年たちの行動とセリフが尋常でなくかっこ良いのですが、演劇的なのです。
(トレーズ閣下にいたっては、ギャグとまがう、かぐわしいキザの奥義すら感じます)




純粋すぎる少年たち


10代のころは、『星矢』『トルーパー』の同世代の少年たちがかっこよくてまぶしかった。
20代のころは、一世代ちがう『W』の少年たちが、やはりかっこよくてまぶしかった。
30代、そしていま40代後半……少年たちはいまもまぶしい。
ただ、そこに微量の胸のイタみを感じるようになりました。

小さい子にまっすぐ直視されたとき、心のなかで「うっ」とくることはないでしょうか?
その瞳があまりにまっすぐで純粋すぎて、なにかやましさを感じてしまう。
べつに自分はさほど悪人であるとはおもっていないのですが(自覚してないだけ?)、しかし、なぜか怯んでしまう。
あれとおなじで、少年たちのまっすぐな生き様に、ひときわ異彩を放つさわやかさと、そのなかにちょっと後ろめたさを覚えるように。
30代のいつごろからでしょうか……。

昔は独りよがりながらも、それなりに純粋でまっすぐだったような気がします。
しかし、そのため凹んだり、傷ついたりしているうちに、けっこう物事を迂回して考えるようになってしまった気が。
もちろん、それが一方的に悪いとはおもっていません。
若いころのまっすぐさ、とくに独りよがりでは、なにかと都合が悪い。
協調性などで問題がなくもない。
精神的にも疲弊します。

まっすぐって疲れるんですよね。

しかし、それでも、まっすぐに生きる少年たちのさまは、わたしにはまぶしく、かつ、見ていてちょっとだけ胸がイタみます。
自分を韜晦(とうかい)している、いまの自分へのやましさからでしょうか。
独りよがりとはいえ、それなりにまっすぐだった過去への郷愁からでしょうか。



白って、けっこう、見ていて疲れませんか?
純粋なものを見ていると、ちょっとだけ物悲しくなりませんか?
星矢』『トルーパー』『W』の少年たちを見ていると、ほんの少しだけそんな気分になるんですよね。




グリーン・ワイアット……良い友人にはなれなそうだが、やられ役としては名優『機動戦士ガンダム0083』



ワイアット大将


グリーン・ワイアット(U.C.0083)
・連邦軍大将
・連邦軍の主導者の一人
・派閥の領袖(ワイアット派)[ただし、コリニー派に属しているという説もある]
・貴族的な顔立ち
・気取り屋
・イギリス出身?
・スペースノイドへの差別意識あり
・ジオン残党の核攻撃により死去




紳士……


「レディーは贈り物が好きだと相場は決まっている」
「勝利の味とダージリンの香り、これぞ紳士の特権だな」
「紳士は、時間に正確でなくてはな」

はあ、そうですか……。
はあ、でしょうね……。
としかリアクションが取れない、スカした……すばらしいセリフの数々。
(御大・田中秀幸さんの美声が、また、スカ……素晴らしい)

数少ないセリフがこの調子ですから、普段からこんな感じなのでしょう。




「盛りおって、サルどもが!」


しかし、いざ、自分に内通したシーマとの秘密の会合を、なにも知らない他派閥(コーウェン派)のアルビオンMS隊にぶち壊されると、

「盛りおって、サルどもが!」

と激昂。
他派閥とはいえ本来は味方のはずのアルビオン隊を、盛っているサル呼ばわり。

本性……?




紳士のたしなみ


しかし、グリーン・ワイアットもなかなかのもので、激怒したあとすぐさま平静さを取り戻し、シーマ艦隊と遭遇戦をしているような体裁をつくろう命令を即座に出しています。
シーマ艦隊のムサイ級軽巡洋艦後期型「ニーベルング」を砲撃で撃沈させています。
シーマとの内密の接触を気取られないための、アルビオン隊へのアリバイづくりです。
しかし、シーマの乗艦するザンジバルII級機動巡洋艦「リリー・マルレーン」は逃がします。
シーマは自分の手駒なのです。
連邦軍内派閥争いの手駒(一説には、コリニー派・ワイアット派・コーウェン派の三すくみの争いという)。
ジオン残党の内部にいて、その事情に通暁している情報源。
生かしておいたほうが、自分にとってはなにかと有益なのです。
そんな計算がとっさにできるくらいには有能なのかもしれません。

なるほど、ワイアットはまったくのエセ紳士ではないのかもしれません。
怒りに我を忘れないのは、紳士のたしなみの一つなのですから。




紅茶……高貴なる飲物


グリーン・ワイアットはセリフからも、紅茶に対するなみなみならぬこだわりがあるようです。

イギリスでは、1660年代、貴族のあいだで喫茶が大流行しました。
イギリスの貴族は平民と差別化をはかるためにも(もちろん、それだけではないですが)、ティーを愛飲しました。
中国(のちインド)から輸入するため運搬などに多額のコストがかかり、そのためお茶(はじめ緑茶、のち紅茶)はいやがおうにも高価になり、平民には手が出ない。
そのことが、平民と格差をつけたい貴族にとっては好都合だったのです。
高級品だった砂糖もたっぷり入れるので、ますます高価に。
当時のお茶は珍重品だったのです。

(ちなみに、中国からヨーロッパへの長旅の運搬中に緑茶が偶然に発酵して紅茶が誕生したという説があります。
この説は、偶然が紅茶を生み出したというおもしろさからもてはやされていますが、事実ではないようです。
紅茶は中国で明代につくられたといわれています)




自信過剰のワイアット


紳士であることと、貴族の飲み物であった紅茶を、まるで自分のアイデンティティーであるかのように前面に押し出しているところを見るとワイアットは相当に差別意識が強いのかもしれません。
友軍でも、おのれの邪魔をすれば、サル呼ばわりですからね。

サル呼ばわりには、自分が凡百どもとはちがう高級な人間であることへの自負と高慢とが顔をのぞかせています。
おのれの才覚や魅力に、かなりの自信をお持ちのよう。
紳士の仮面の下には、他人への侮蔑が満ち満ちている感じ。

そのグリーン・ワイアットが、陰謀にはめられて核攻撃で散っていくわけです。
自分でおもっているほどには有能でなかったということでしょうか。
それとも、神ならぬ人間の身では、どんなに優秀な人間でも罠にはめられるのはいたしかたないといったところでしょうか。




やられ役としては名優


勘違いしまくりのワイアット。
実際に身近にいたらかなり鬱陶しいかもしれませんが、遠くから見ているぶんには、その勘違いっぷりはわたしにはとてつもなくおもしろく思えます。

おれは優秀な選ばれたエリートなのだ!→だまされた! やられた!

の流れは、「いるよねそういう人」という納得と、「あまり同情できない」人間が被害にあったことからくる心のもやもやの少なさから、観ていておもしろい。
善良な人が陰謀の犠牲になる後味の悪さとは対極にあるのです。

また、ワイアットはルックスも良く、それなりに優秀そうなのも、被害者にはうってつけかもしれません。

ホラー映画もそうです。
若く美しい男女が被害にあうなら、それなりに絵になる。
同情するくらいに容貌にも才能にも、あらゆるものに恵まれない人が被害者になるとやりきれなさを感じるものですが、容姿・才気などに長じている者には、「まあ、しょうがないよね」とそれなりにいい思いをしているだろうからと納得もある程度いくものです。

ワイアットはその点では非常に優秀です。
貴族的な風貌、少なくともそれなりの才幹、きわめて高い社会的地位(声優の田中秀幸さんの美声と堂々たる演技はもちろん)……そして外せないのが、気取り屋のちょっとイヤな御仁ということ。

陰謀にはめられ抹殺される役者として、グリーン・ワイアットはじつの絵になる男子なのです。





『狼の血族』(1984) サラ・パターソン……消えた美少女



80年代の映画


わたしは、80年代の映画を観るのが好きです。

80年代はほぼ十代でした。
感受性の強い時期に、映画を観たり、雑誌などでその情報に触れたりしたため、作品を観るなり、当時の雑誌などを読むなりすると当時の若々しい感情がよみがえってきます。
懐古趣味というやつです。



それ以外にも、80年代の映画が好きな理由はいくつもあるのですが、その一つに、出演している女優さんや俳優さんはいま、どうしているのだろうと想像するのが楽しいということが挙げられます。

役者として大成できないと、ほぼ近況を知ることは不可能。
たとえば、ホラー映画に出演した女優さんだと、若さと美しさで映画に出演したものの役者としての実績はさしたるものもなく、そのあとが続かないということは良くあります。




『狼の血族』


『狼の血族』(1984)に主演したサラ・パターソンは、出演時、13歳の中学生でした。

作品は、赤ずきんちゃん的なメルヘンをベースにしたホラー映画。
ヒロインは、森に囲まれた小さな村に住む女の子。
将来の夫とさだめられた少年は、知的でなく、上品でもなく、美少年でもなく、性格が良いわけでもない。
そんな少女の前に、正体不明の狩人があらわれる。
村にはいない知性的で、物腰が上品で、そのくせセクシーな狩人にヒロインは惹かれていきます。
この、わたしでは一生なれないような魅力的な狩人が実は狼男で、それに気づいてもヒロインは狩人を相手に性に目覚めていくという、フロイト的な解釈を織り交ぜた傑作でした。

ホラー映画やSF映画などでは世界でも指折りの映画祭であった(いまは亡き)アボリアッツ・ファンタスティック映画祭(フランス)では、1985年、惜しくもグランプリは『ターミネーター』にさらわれましたが、次点ともいうべき審査員特別賞を受賞しています。
世界三大ファンタスティック映画祭といわれるシッチェス・カタロニア映画祭(スペイン)、ポルト国際映画祭(ポルトガル)では、グランプリを獲得しています。

監督のニール・ジョーダン(『クライング・ゲーム』『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』etc.)は、世界に雄飛する足掛かりをこの作品で得ました。




サラ・パターソン


サラ・パターソンは絶世の美少女で、世界中のマニアな人たちに大注目されましたが、メジャーな女優にはなれなかったようです。
ネットで調べてみても、ほぼ情報はなし。
現在も女優なのか、そうでなければいつ女優をやめたのかもわかりません。

ほぼ、わたしと同年齢のサラ・パターソン。
存命であれば、いま、40代後半。
サラ・パターソンはどんな人生を送っているのか……。
などと感慨にふけるのが堪らないわけです。
山あり谷ありであろう(と勝手に想像する)人生は、永遠につくられることはないであろう映画を夢想するような楽しさがあります。
悩み苦しむ姿(これも勝手な想像ですが)には共感も生まれます。

いやあ、映画って本当にいいですね……。
(おまえは、水野◯朗か?)

サラ・パターソンはどんな人生を送っているのでしょう。



独自のニュータイプ概念 それは高松信司から富野由悠季への挑戦状?『機動新世紀ガンダムX』



独特のニュータイプ論


『機動新世紀ガンダムX』のニュータイプ論は独特です。
独特のニュータイプ論には、高松信司監督の富野由悠季監督への批判があるのかなとわたしなどは邪推しています。




『ガンダムX』におけるニュータイプ


『ガンダムX』のアフターウォーにおいては、フラッシュシステムを稼働させることができる者のみがニュータイプ能力者と認められます。

フラッシュシステムは、宇宙世紀におけるサイコミュに相当します。
ビットやビットモビルスーツなどを制御できるシステム。

このビットやビットモビルスーツが戦争にはたいへん有用でした。

ビットモビルスーツにいたっては、ガンダムに乗るニュータイプ能力者が12機のビットモビルスーツ(Gビット)を操縦でき、12機もすべて自分が乗っているように自在に操縦することができるという代物です。
同時に、13機をなんの問題もなくあやつれるのです。
Gビットの性能は基本的に本体のガンダムと遜色なし。
つまりは、敵にしてみれば、ガンダムクラス13機で編成されたニュータイプ部隊と戦うも同然。
戦況を一変させる能力。
これは、すさまじい脅威です。



そのあまりの人間離れした強さゆえ、旧い人類を超えた「新しい人類」に人の目には映ったのでしょうか。
もともと、フラッシュシステムはビットやビットモビルスーツなどを稼働させる科学技術でしかありませんでした。
しかし、「フラッシュシステムをコントロールできる能力を持つ者のみがニュータイプ」という転倒した思想が生まれてしまいます。

「戦争の道具」として有能な者がニュータイプという思想です。



【人類の新たなる革新】ニュータイプ。
その壮大なニュータイプであるか否かの判断基準が、たんなる科学技術のフラッシュシステムを駆使できるかどうかにかかってしまったのです。

狭すぎる解釈です。
フラッシュシステムに対応できる人間だけが、ニュータイプであるという狭さ。

ニュータイプは異能力を持っている者のみがなれる。
ただし、異能力があればいいというわけではない。
異能者でもフラッシュシステムを起動させることができなければ、ニュータイプではないのです。

たとえば、フロスト兄弟は、兄弟間(のみ)のテレパシーで意思疎通能力や視覚等の感覚を共有できるツインズシンクロニシティの異能者で、2人の連携による戦闘力は絶大なものがありましたが、ビットモビルスーツをあやつるフラッシュシステムに対応できなかったという理由のみでニュータイプとは認められず、ニュータイプのできそこないというような(「カテゴリーF」Fはフェイク=にせもの)屈辱的な扱いを受けています。

異能者でなければ、なおさらニュータイプとは認定されません。




ニュータイプは幻想


この考えを、月の巨大ドーム状施設D.O.M.E(ドーム)のシステムに(肉体をうしない)意識を組み込まれた人類初のニュータイプ(ファーストニュータイプ)は否定します。
「ニュータイプは幻想に過ぎない」と。

ニュータイプは人類の革新でもなければ未来をつくるものでもない。
ニュータイプという思想に縛られているかぎり未来はないとすら語ります。

あえてニュータイプを定義すれば「未来に希望を持って行動していく人間」みながニュータイプだといいます。
能力の有無は関係ない。
優劣も関係ない。
それが、あえて定義した場合のニュータイプ。
しかし、それはあくまで「あえて定義すれば」であり、そもそも「ニュータイプは幻」なのです。
「特別な力などなくても、強い心を持って行動することが未来を切り開く力を生む」というのです。



幻想であるニュータイプ思想は、未来を切り開くには障害になるというのです。




富野由悠季はニュータイプにこだわっている?


じつは、これは富野由悠季監督へ苦言を呈しているように思えてしかたないのです。
ニュータイプにこだわる富野監督に。
(そうであったなら面白いという願望も、そう思わせる一つの要因でしょう)

『機動新世紀ガンダムX』は、1996年作品です。
それまでにガンダムのアニメ作品は、

『機動戦士ガンダム』(1979)
『機動戦士Zガンダム』(1985)
『機動戦士ガンダムZZ』(1986)
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1987)
『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(1989)
『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』(1991)
『機動戦士ガンダム F91』(1991)
『機動戦士Vガンダム』(1993)
『機動武闘伝Gガンダム』(1994)
『新機動戦記ガンダムW』(1995)

10作品が制作されました(映画オリジナル『逆襲のシャア』以外のオリジナルでない映画作品は省きました)。

『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』は同じ1996年開始ですが、7月からの発売です。
かたや『X』は、4月5日に放送開始で、『08』に先行しています。



このなかで、ニュータイプが主要なキャラとして登場するのは、すべて富野作品。
富野作品は、すべてニュータイプが主人公。

一方、富野作品以外では、主要なキャラにニュータイプは一人もいません。
『ポケットの中の戦争』は、ニュータイプ用ガンダムは出てきてもニュータイプは一人も出てこない。
『0083』は、ハマーンがゲストで1分ほど出てくるくらい。
『G』『W』の世界にいたってはニュータイプ概念が存在するかどうかも不明(漫画版『W』にはニュータイプ概念が存在。ゼクス・マーキスがニュータイプ)。

1996年時点では、アニメ作品におけるニュータイプ概念は富野監督専用といっていいでしょう。
そのニュータイプ思想に縛られているかぎり未来を切り開くことはできないと、ファーストニュータイプの口を通して高松監督は述べています。




高松信司……ガンダムシリーズの歴戦の勇士


高松監督は、『Z』『ZZ』『逆シャア』では富野監督のもと、設定や演出・演出補などで制作にかかわっています。
『Z』31話「ハーフムーン・ラブ」では初演出を経験しました(知る人ぞ知る、サラとカミーユがデート?してアイスクリームを食べる回。けっこう不思議な演出が多いことでもちょっと有名→よろしければ、こちらを『サラ&カミーユ 若さゆえの過ちか? アイスクリームのコーンを捨てる!!』)。
非富野ガンダムの『ポケットの中の戦争』では、演出(1、3、5話)と絵コンテ(3話)で作品にかかわっています。
『W』にいたっては、池田成監督が凝りすぎたすえに行き詰まり制作スケジュールが破綻し降板、29話?から後半半分を高松信司監督が代行しました(ただし、クレジットなし)。

歴戦の勇士といったところでしょうか。
ガンダムシリーズの申し子のような方なのです、高松監督は。
富野監督とも関係が深いその高松信司監督が、富野監督のこだわるニュータイプ思想を否定しているのです。




富野由悠季は「戦争の道具」としてのニュータイプを否定


思えば奇妙なのです。
わたしの記憶違いでしょうか?
(記憶違いであったならすみません)
富野監督は『Z』以来、「戦争の道具」としてのニュータイプ能力を「バカみたい」と否定していた気がするのですが……。
それなのに、いったんガンダムの世界から離れたあとの『F91』『V』でも、やはり主人公はニュータイプ。
そして、ニュータイプたちがひたすら戦う。

富野由悠季監督は、ニュータイプ思想に呪縛されているのでしょうか?
魅力的な悪女のように、ダメと知りつつ惹かれていってしまうのでしょうか?
それとも、ニュータイプについてのなんらかの心境の変化があったのだろうか……。




ギレン・ザビIQ240 240ってギャグですか? 『機動戦士ガンダム』



ギレン・ザビのIQは240!


ギレン・ザビの知能指数は240だそうです。
240!

いくらなんでも、ふっかけすぎでは?
(富野監督ですかね? この、無謀な設定をつくったのは)




知能指数の信憑性


IQは120以上で秀才。
140以上で天才です。

一説には、東大生の知能指数平均は120なのだそうです。
(ちなみに、IQ120は10人に1人、IQ130は50人に1人だそうです)

そして、ギレンは240。
国民平均のIQ100と東大IQの差は20。
国民平均のIQ100と天才IQ最小値140の差は40。
国民平均のIQ100とギレンのIQ240は、その差、140!

天才IQ最小値140と比較しても、100も上回っているのです。

リアリティーがなさすぎて、すごいことはわかるのですが、どうすごいのか実感が湧きません。



アインシュタインは、IQ172だそうです(ただし、IQテストを受けたことはなく、単なる推測とも)。
父デギンに「ヒトラーの尻尾」と言われたギレンですが、そのヒトラーはIQ150(こちらも信憑性は不明。単なる推測の可能性が高い)。
IQ130以上は人口の2.2%という研究結果もあります。
IQ125以上は6.7%という、上記とは別の学者の研究結果も。
IQ120以上だとおよそ10%。



もちろん、知能指数測定が本当に正確なIQを割り出しているのかは、古今東西で物議をかもしています。
一説には、問題に馴れるなど訓練すればIQの測定値は大幅に上がるともいいます。
さほど上がることはないという意見も。

ただ、だいたいの知能指数をあらわしているようではあります。
(ただし、正確なIQは測れないという意見も専門家のあいだではかなり根強い)

IQ測定を一応信頼できるものとここではしておきましょう。
だとすると、IQ240は驚異的でしょう。

実際に測定されたIQの最高値はいかほどなのでしょう?
もしかして、IQ240に満たなかったりして……。

(信頼できるIQ測定だと、160程度が上限だという説もあります。
かたや、ギネスに認定された世界最高のIQはアメリカ人女性マリリン・ボス・サバントのIQ228だそうです。ただし、正確なIQ測定が可能なのかには論争あり。ギネスも、世界一IQの高い人物を認定するのは無意味で信憑性がないということから、世界一のIQ認定をいまはしていません)

信憑性がないかもか……ギレンのIQ240は自己申告だったりして。




エルピープル……エルドラド・ピープル(楽園の人)が名前の由来?『機動戦士ガンダムZZ』



エルピープルの名前の由来


エルピープルの名前の由来は、「エルドラド・ピープル」だという説があります。
エルドラドとは、「楽園」や「黄金郷」のこと。
つまりは、「楽園の人」。

オフィシャルである『ガンダムファクトファイル No.4』(ディアゴスティーニ、2004)は、この説のみを紹介しています。
そこでこれが定説かと思いきや、ネットで念のために調べてみるとほかにも諸説。
・エルフ・ピープル(PEAPLE)
・エレ・ピープル(PEAPLE)
・レモンピープル(L(emon) pea ple)
・LP盤レコードプレーヤーの筐体(LP PULL[ボタン表記])
・エル・フィノの一族(PEAPLE)
・エルの一族(PEAPLE)

エルフは高い知性と文明をもった美しい妖精。
人間よりも神に近い高貴なイメージ。
ロードス島戦記』のヒロインであるディードリットなどが有名。
プルにはかわいらしい妖精のイメージがあり、かつ、道を踏み外そうとしている妹のプルツーを生命を賭して止めようとしたプルの最期はじつに気高く、エルフ族に通底するなにものかがプルにはあるように思えます。

エレ・ピープルは、すみません、なんのことだかわかりません。
聖戦士ダンバイン』のエレ・ハンムのことではないと思いますが……。
ちなみに『聖戦士ダンバイン』は『ZZ』と 同じ富野作品。
エレ・ハンムは父ピネガンが国王だったミの国の王女で、のち、国王だった母方の祖父フォイゾン・ゴウを継いでラウの国の女王になったひたむきで内気な13歳の女の子。
プルの卓越したニュータイプ能力は、エレが持っていた巫女的な強大な霊力を連想させます。

『レモンピープル』ですか……わたしは十代後半のころ『ホットミルク』『ペンギンクラブ』『コットンクラブ』だったからなあ……まあ、エロ漫画雑誌です。
(さりげなく、読んだことのあるエロ漫画雑誌をカミングアウト)

LP盤レコードプレーヤーはCDの先輩に当たる音楽プレーヤー。
富野由悠季が命名に悩んでいたとき偶然目にした、LP盤レコードプレーヤーのボタン表記(LP PULL)から着想を得たとのこと。

エル・フィノは『聖戦士ダンバイン』に出てくるミ・フェラリオ(妖精)。
お転婆(てんば)で自由奔放なところなどがプルと良く似ています。
エル・フィノの一族ということから、エルの一族(エル PEA PLE)。

エルの一族とは、富野由悠季が読んでいたファンタジー小説に出てくるかわいい妖精の一族。
これを気に入った富野由悠季がそのまま名前にしたとのこと、つまり、エルの一族(エル PEA PLE)。

ただし、ネットではほとんどが「エルドラド・ピープル」説をまず初めに紹介しています。
一応(絶対ではないものの)公式である『ガンダムファクトファイル No.4』も「エルドラド・ピープル」説を採っています。
これが、いまのところ最有力説でしょうか?
(あるサイトでは、確証でもあるのでしょうか『レモンピープル』と断言していて、そのほかの説には見向きもしていません)
(ファンタジー小説に出てくる「エルの一族」からの富野命名説は、本放送終了間もないころに出版された『別冊アニメディア 機動戦士ガンダムZZ PART2 完結編』(1987)が出典元とのこと【現物不所持のため未確認】)




プルたちの光と影


このエルドラド、わたしはプルの名前のもとになったというのはありうる話だなと思いました。
その理由は、プルとエルドラドに共通する光と影です。

エルドラドは、大航海時代(15世紀半ば~17世紀半ば)、主としてスペイン人がアンデスの奥地にあると夢想した黄金の楽園。
実際は16世紀ごろ、南米アンデス地方に存在したチブチャ文化を理想化しすぎたスペイン人によって産み出された「妄想の楽園」です。

チブチャ文化は、金の採掘と金細工技術に秀で、コロンビアの首都ボゴダの北57kmのところにあるグアタビータ湖地方では首長が全身に金粉をぬり儀式をおこなう風習がありました。
それだけのことです。
黄金郷からは程遠い。
しかし、この風習を耳にした貪欲な冒険者たちは、欲望のままに想像を肥大化させ、一攫千金の夢を胸にエルドラドを目指し、侵略をはじめました。

南米アンデス地方は征服者(コンキスタドール)に踏み荒らされ、現地の人たちは虐殺され、略奪され、しまいにはコンキスタドールのあいだで富の奪い合いが繰り返され、裏切りと暗殺と戦いのなか、多くの者が非命にたおれていきました。

エルドラドはもともと存在しなかったうえに、その妄念のために多くの人々が不幸になっていったのです。
楽園どころではない、それがエルドラドです。
光と影というより、影に一方的に寄った王国、それがエルドラドといっていいでしょう。



エルピープルは、自由奔放な明るい子でした。
甘えん坊で、物怖じしない。
天使のような女の子。

しかし、プルは、MSを上手に操縦するために人工的に生み出されました。
そして、妹のプルツーとの戦いで亡くなります。
戦争のために生み出され、11歳の幼さで戦争により落命する、それも妹の手によってです。



プルの光と影。
それはエルドラドの光と影にかさなります。

そしてそれは長女のエルピープル一人にとどまらず、クローンである妹たちにもまた不幸な運命が用意されていました。
プルツーやプルトゥエルブなど数多くの(少なくとも11人)プルの妹たちのほとんど、あるいは全員が戦いのなかで散っていくことになります。

本来は戦いの道具ではないニュータイプをたんなる戦いの道具とみなした「幻想」が、プルたちを不幸にしたのかもしれません。



プルは、そしてプルの妹たちは、「幻の楽園の人」だったのかもしれません。