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バーニィ……あれから30年(『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』)【※ネタバレあり】



バーニィ、30年前

バーニィが亡くなって30年目です。
といっても、わたしが『ポケットの中の戦争』の最終巻を観たのが今日(2019.8.30)の30年前の1989年8月30日ということなのですが。

最終巻の発売日は8月25日。
わたしは、5日遅れて、ビデオソフトをレンタルして鑑賞しました。

まったくラストの知識がないまま『ポケットの中の戦争』を観ていたので、まさか、ザクII改に乗ったバーニィがクリスの搭乗したアレックスと相討ち(あるいは敗北か?)になり、バーニィが戦死するとは思ってもいませんでした。




バーニィ、自分の分身のように、あるいは親友のように

バーニィは19歳。
当時のわたしは17歳だったので、年齢もそこそこ近いこともあって我がことのように、あるいは親友のようにバーニィに感情移入していました。

年齢だけでなく、アルにいい格好しようとモビルスーツを1機も撃墜していないのに4機墜としてもう1機でエース(5機撃墜でエース)だとウソをついたり、クリスと「バーニィ」「クリス」と愛称で呼び合うことを約束してアルを肩車しながら有頂天でクリスの家を走ってあとにしたり、いかにも自分もしそうな「普通」っぽさにも親近感を抱きました。

劣等感からウソをつき、好きな人との距離が縮まってウキウキする。
当時のわたしに、バーニィはあまりにも似ていました。
(いまのわたしは背伸びをしてウソをつくのもめんどうになり、きれいな女の人を目にしても『きれいだな……』と鈍く思うくらいで恋愛感情もかなりすり減っていますが)

他人とは思えないこの共感もあり、バーニィは昔も今も三本の指にはいる好きなアニメキャラクター男子であり(ほかの二人は『重戦機エルガイム』のダバ・マイロードと『装甲騎兵ボトムズ』のキリコ・キュービー)、ガンダムシリーズでは圧倒的なNo1キャラクターです。

ですから、「バラバラにふっとんじまってる、ミンチよりひでぇよ」(地球連邦軍兵士【声:大滝進矢】)というバーニィの死にざまは、若いわたしにはとてつもない衝撃でした。




小説版では生還するバーニィ

小説版では、死を悼む心からかバーニィは蘇生します。
以下、抜粋します。

                 ※
校庭にいるアルの後ろ姿を、学校脇に停めた自動車のなかからアルの母親(ミチコ・イズルハ)と父親(イームズ・イズルハ)が見つめている。
「オトナになったのかな、アルは」
OVAだと自宅で、アルが登校で家をあとにした直後にされる会話が、学校脇の自動車のなかでアルを見つめながらなされる。

父親は新聞に目を落とす。
夫が熱心に新聞に目を通しているので、なにか面白いことでもあるのかと訊ねる母親。

ジオンの核ミサイルがリボーコロニーをねらっていたことが噂になっており、その目標がコロニーに駐在していた連邦の新型モビルスーツを破壊しようとしたからではないかという記者の見解を語って聞かせる父親。

その記事はさらに、「クリスマスに連邦のモビルスーツと闘った、ジオンのザクについて言及」する。

つづけて父親と母親の会話。
「そのパイロットは、自分が連邦の新型を破壊しなければ、このコロニーが味方によって核攻撃されると知って、単身闘いを挑んだというんだ、つまり彼は、このコロニーを救おうとしていた、というんだな。自分が死んだときに備えて、ことの一部始終を納めたテープも、残してあったらしい。それをこの新聞社は入手したんだそうだ」
「まあ、ほんとなのかしら?」
「さあねえ。ま、詳しいことはそのうちわかるだろう。そのパイロット……」
新聞を折りたたみ、校庭のアルに目をやると、もう記事のことなどどうでもいいといった口調で、彼は付け足した。
「奇跡的に助かったらしい。今朝、意識を取り戻したそうだから……」

(小説版『ポケットの中の戦争』結城恭介 角川スニーカー文庫 P215~16抜粋)
                   ※

これは、バーニィには生きていてもらいたいという願望が反映しているのかもしれません。
しかし、作者みずからが、アニメでもしバーニィが蘇生したら蛇足でしかないし、一流の悲劇がまたたく間に三流のハッピーエンドに堕ちてしまう、このバーニィの蘇生はあくまで小説版限定のおはなしであることを、あとがきで強調しています。

あたりまえですが、やはり、バーニィは亡くなったのです。




バーニィの宇宙世紀0079年12月25日

バーニィはU.C.0079年12月25日が命日です。
時刻は、バーニィ最後の戦いである「クリスマス作戦」が午後2時ちょうどにはじまっているので、午後2時台だと思われます。

そして、わたしにとっては1989年8月30日。

戦争がなければ、生命のやりとりをすることは一生なかったであろう普通の青年が、そのとき、戦場で若い命を散らしたのです。



『時をかける少女』(1983)【原田知世】……忘れることと忘れられることの哀しみ【※ネタバレあり】


『時をかける少女』(1983)【主演:原田知世、高柳良一】

高校二年生の芳山和子(原田知世)が愛した少年・深町一夫(高柳良一)は、西暦2660年の世界からやってきた未来人だった。
一夫は自然がほとんど絶滅した未来から、成分が必要になったラベンダーを採集しにやって来た薬学博士だった。
しかし、未来から来た人間であることを知られるわけにはいかない。
そのため和子たちの記憶を改変し、和子の幼なじみを演じる。
一夫が和子と時をともにしたのは、実際はたったの一か月。
そのあいだに、和子にとって一夫は「いつもいるんだかいないんだかわかんない」たんなる幼なじみから恋心をいだく存在にまでなり、一夫もまた和子に特別な感情をいだくようになっていた。
だが、一夫は未来に帰らなければならず、その際には自分を人々の記憶から消していかなければならない。
そのことを告げられた和子は、一緒に未来に連れて行ってもらいたい、それが駄目ならせめて一夫の記憶を胸に生きていきたいと懇願する。
しかし、例外は許されず、つぎに会うことはあっても和子は自分には気づかないと告げながら一夫は忘却の薬品を和子にかがせる。
和子は、絶対に一夫のことを忘れないと心に念じながら気を失うのだった。

11年後、薬学の研究員になっていた芳山和子は、勤務先の廊下で一人の青年とすれ違う。
和子は、その青年が一夫であることに気づかぬまま、すれ違い去っていくのだった。




一縷(いちる)の望みとちょっとだけの嘘

わずかの望みをいだいて会いに来たのでしょう。
もしかしたら、自分のことに気づいてくれるかも、と。
その一縷の望みはかないませんでした。

わずかの望みに希望を託すというのは、人生のさまざまな場面で経験することです。
家族の幸せ、恋愛、受験、などなど。
そして、想いがかなわなかったとき、ときに嘆き、ときに後悔し、ときに「やはりな」と自分にちょっとだけ嘘をつく……悲しさをやわらげるために。

一夫もまた、そうだったかもしれません。
「やはり……最初からわかっていた」と、はかない望みをいだいていた自分にちょっとだけ嘘をついたかもしれません。




忘れる哀しさ、忘れられる哀しさ

『時をかける少女』(1983)を観たのは、80年代半ば~後半。
テレビで初めて放送されたときです。
わたしが中学生か高校生のときで、和子や一夫とほぼ同年齢でした。

この『時をかける少女』のことを思い出すと、いつも決まって一つのことに行き着きます。
……愛する人に忘れられるほうがつらいのか、それとも、愛する人を忘れるのがつらいのか。
『時をかける少女』では、忘れられたのが一夫、忘れたのが和子です。

わたしは最初、忘れられるほうが悲しさは大きいと思っていました。
相手の記憶のなかから自分の存在が消えてしまうわけです。
相手の思い出のなかに自分はいない。
これはむなしい。

そもそも、自分が忘れたなら、自分が悩むことはないでしょう。
悩むもなにも、きれいさっぱり相手を忘れているわけですから、自分の心のなかに相手は存在しない……0に等しいのです。
0に悩むことはない。

しかし、いつもわたしの結論はそれとは逆になります。
愛した相手をすっかり忘れていることに気づかないのは、相手にすっかり忘れられるよりも悲しい。
そして、怖い。

あるはずの思い出が、あるはずの過去が、すっかり頭から消えている。
そして、そのことをまったく知らない。
もし、家族のことが思い出や過去の記憶からいっさい消え去ったなら、そして、消え去ったことにすら気づかないとしたら。

そう考えると、平静ではいられなくなります。
「忘れられていることを知っている」悲しさは、「なにも知らない」悲しさより、まだ救いがあるのではないでしょうか?
それとも、やはり、はなから記憶のないほうが楽で良いのでしょうか?




『時をかける少女』(1983)のラスト

久しぶりに『時をかける少女』のラストシーンを写真で見ました。
すれ違ったあとの写真。
手前には廊下をこちら側に歩く和子。
奥に、一度だけちらっと振り返り和子の背中を見つめる一夫。
思い出してもらえなかった一夫(高柳良一)の顔は寂しそうです。
かたや、正面を向いて一夫から去っていく和子(原田知世)は無表情。
なにもわからないのです。
この写真を見て、寂しそうな高柳良一より、かつて愛した人を目にしてもまったく気づかない原田知世のほうに、より哀れを感じました。
このあと、高柳良一は背中を見せて画面の奥へ去っていきます。
原田知世は最後まで、なにもわかりません。

速水奨「かっこいい暗さ、っていうのかな……」(自分で言うな!)(『アニメワールド・スターチャイルドステーション』)



速水奨

速水奨(はやみ しょう)といえば、アニメ声優界の大スター。

1980年(22歳)に声優デビューしてから現在まで、主としてアニメ系の作品の第一線で活躍しています。
吹替と違い、ベテラン起用の少ないアニメ系作品において、若いころはもちろん61歳のいま(2019)にいたるまで引きも切らずアニメ系作品のキャラクターの声を多数担当しているのは驚異的ですらあります。

アニメ声優の歴史に、特別な存在の一人として刻まれることが約束された生きた伝説と言っていいでしょう。

代表作の一例:
マクシミリアン・ジーナス『超時空要塞マクロス』、バーン・バニングス/黒騎士『聖戦士ダンバイン』、ポル・ポタリア『装甲騎兵ボトムズ』、桂木桂『超時空世紀オーガス』、ギャブレット・ギャブレー『重戦機エルガイム』、アイアンハイド『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー』、バロン・リックス『赤い光弾ジリオン』、飛鳥武蔵『風魔の小次郎』、菅生修/ナイト・シューマッハ『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』、エクスカイザー『勇者エクスカイザー』、ダ・ガーン『伝説の勇者ダ・ガーン』、ギニアス・サハリン『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』、愛染惣右介『BLEACH』、明智光秀『戦国BASARA』などなど。




速水奨はもてる

甘いバリトンのたぐいまれなる美声で知られる速水奨は、なかなかの美男子としても知られています。

『聖戦士ダンバイン』(1983)のときは共演したうら若い女性声優さんたちから、もてもてだったとのこと。
『ダンバイン大事典』(ラポート発行、1984)の西城美希(ガラリア・ニャムヒー、ベル・アール、ラナ・パーキンスン)さんの文章を抜粋してみます。

西城さんの速水奨の第一印象(ダンバイン第一回収録日)は、
「うわぁ、ステキな人!」
だとのこと。
さらに、アフレコでバーン・バニングスを演じている速水奨の横顔には、
「速水さんの横顔はとても凛凛しくって思わずみとれてしまうほどでした」
と、わたしなどは一生経験できないであろう、若き乙女に熱き視線を注がれています。
また、『ダンバイン』のレギュラー女性若手声優の色川京子(リムル・ルフト)さん、川村万梨阿(チャム・ファウ)さん、高田由美(キーン・キッス)さんとはひそかに「バーン・バニングスFC」なるものを結成していたといいます。
これは『ダンバイン』の美形ライバルであるバーンのファンクラブなのですが、みなさん、速水奨に憧れていたそうですので速水奨ファンクラブでもあったのでしょう。
「とっても優しくてステキな速水さん」
「私たちの☆あこがれの的☆だったのです」
と、西城美希さんの速水奨への想いは止まらないのであります。

しかし……。




速水奨はヘン

ただし、速水奨は美声で美男子として有名のみならず、「天然のヘンな人」としても名を馳せています。
その資質は、デビュー間もない『ダンバイン』のころにはすでに存在していたようです。

西城美希さんが速水奨と出会って3週間後。
高田さん、川村さん、色川さんたちとともに速水奨と初めて飲みに行った時のことでした。
『ダンバイン』のキャラクターについて語りあっているとき、西城さん演ずるガラリアのことが話題にのぼりました。
ガラリアは、騎士の父親が敵前逃亡したためいじめられた過去があり、その恥をすすごうと功名心に焦る女騎士でした。
余裕がないのです。
ちなみに美女です。
そんなガラリアを評してショット・ウェポン役の田中正彦さんが、
「ガラリアは、女性としてはあまりかわいくないね」
とおっしゃいました。
それにたいし、すかさず速水奨は、
「いやしかし、そういう女はくずしがいがある。フッハッハッハッハッ!!」
と「バーン特有の腹式法笑いで、さりげなくすごいことをいってのけた」のだそうです。
男同士の酒の席ならともかく、女性同席でこれはまずい。
女性たちはみな20代前半、10代後半です(西城さんは速水奨の3つ年下ということで22歳あたり)。
そのうら若い美女たちを前にして、「くずしがいがある」はデリカシーに欠けているでしょう。
西城さん、色川さんは「え?」と驚き、川村さんは「こ、これが、本当のバーンなのね」と嘆いていたそう。
「これで一気に私たちのつくりあげていた速水像がガラガラとくずれてゆくのを感じたのでした」とのこと。
キーン役の高田さんは速水奨と同じプロダクション所属ということで、「こんな人と同じ事務所だと気苦労も多かろ」とほかの3人は常に同情するまでに。
速水奨への、『ダンバイン』若手女性声優陣の思慕は雲散して果てたのでした。

文章の末尾で、
「ホントはバーンが好きだったガラリアこと西城美希でした♡」
とつづっています。

(その後まもなく、西城さんは役者の世界から姿を消しました。
ガラリアやベルの再録も、ほかの声優さんが代役をつとめています。
真実であるか否かは不明ですが、結婚を機に引退したのではないかとか、ビデオで販売する『ダンバイン』総集編(1988)の再録のさいに探偵をやとって探すも行方がつかめなかったとか……。
速水奨のことを好きだった西城美希さんは、あまりにも短い声優人生を駆け抜けていったのです)




速水奨「かっこいい暗さ、っていうのかな」

1982年、『超時空要塞マクロス』のマクシミリアン・ジーナスが当たり役になり、1983年、富野作品『聖戦士ダンバイン』の主人公の最大のライバルであるバーン・バニングス、人気的には低迷したものの『超時空世紀オーガス』の主人公・桂木桂を演じ、若手のアニメ声優として確固たる地位を築きつつあった速水奨は、1984年、富野作品『重戦機エルガイム』で主人公ダバ・マイロードのライバルであるギャブレット・ギャブレーを演じました。

そのとき、栃木放送をキー局とするラジオ番組『アニメワールド・スターチャイルドステーション』(月曜日放送、30分番組、時間帯は夜の10時30分から?)にゲスト出演しました。

ここでも、速水奨はやってくれます。

『機動戦士ガンダム』(TV版1979~80、劇場版1981~82)の大ヒットがあり、1984年当時も富野由悠季作品はアニメ界の中心の一つでした。
その富野作品で、2年連続で主人公のライバルを演じる速水奨は、まちがいなく当時のアニメ声優の若きスターでした。

中学1年だったわたしは、電気を消した暗闇のなかに寝転がり、電源ランプなどわずかに漏れる光にうっすらと照らされながらラジオに耳を傾けます。

『アニメワールド・スターチャイルドステーション』のパーソナリティーの方は、明るく、さっぱりした気性の、はっきり物を言うタイプの女性で、
「聞くところによると速水さんって、お暗いとか?」
と番組半ばごろ、直球の質問を投げかけました。
それに対する速水奨は、腹から響く「腹式法」の力強く、それでいて甘い声で、
「かっこいい暗さ、っていうのかな……」
と返しました。
これにはパーソナリティーの方も、「自分で言うな!」という感じで大爆笑。

たしかに速水奨はかっこいい。
暗くてもさまになるかっこ良さです。
たぐいまれな美声にして、なかなかの美男子です。
しかし、「自分で言うな!」なのです。
暗いけどかっこいい、は他人が言うこと。
ですが、それを多くの人が聴いているラジオで言ってしまうのが速水奨なのです。

わたしは、若いころ、このインパクトのある「かっこいい暗さ」の声マネを何度したことか。
そして、「かっこいい暗さ」にどれだけ憧れたことか。
それは憧れだけに終わってしまいましたが、その影響力のすさまじさも速水奨が大スターであるあかしなのでしょう。
きわめて声良し、なかなか顔良し、かつ天然のぼけっぷりと、速水奨はスターになるべくしてなった御仁と申せましょう。

荒俣宏……人類の叡智に欲情する現代の魔術師『異都発掘【新東京物語】』



夢にまで見た(べつに見たくもなかったが)荒俣宏

真夏の暑さに意識を半分失いかけていたとき、ぼうっとしたわたしの頭に浮かんだのは荒俣宏(あらまたひろし)でした。

こちらに背を向けた巨漢の荒俣宏に対し、わたしは、
「クマと素手で戦えるか?……どうなんだ、素手で戦えるならマッチメイクしてやるぞ……クマと素手でだ。どうだ? クマと素手で戦えるなら、俺がマッチメイクしてやる!」
としきりに、荒俣宏に対して叫んでいるのです。
荒俣宏は気乗りしない顔をして、わたしに背を向け、ただ黙っているだけでした。

これは、なに?
潜在的願望?
『あしたのジョー』の丹下段平(たんげ だんぺい)よろしく、クマとの素手での闘いをけしかけるのが?
しかも、なぜ、荒俣宏?
嫌いではないですが、著書をたくさん読んでいるわけでもありません。

寝てはいませんが、これは半覚醒状態の真夏の白日夢?
汗が肌に重くまといつく真夏の白日夢なら、どうせなら美女に出てきてもらいたいのですが、どうして荒俣先生が……。

しかし、なにかの縁ということで、荒俣宏のことをちょっと。




テレビでは別の顔(by真夜中は別の顔)

テレビに出演しているときの荒俣宏は、だいぶ、自分に制限をかけているように思います。

テレビだと、だいたい、同行しているタレントなり、芸能人なりの質問や問いかけを受けてコメントするというスタイルです。
コメントはさほど長くなく、簡潔にして要点を得ています。
ですから、聞きやすいし、理解しやすい。
そのため、知識がふんだんにありながら、社会性あり、協調性あり、分別のある大人という印象をお持ちの方もけっこういらっしゃるのではないでしょうか?

しかし、荒俣の著書を読むと、そんなことはないことに気づくかもしれません。




荒俣、人類の叡智に陶酔

テレビでの荒俣の発言はわかりやすく、理解も容易です。
なにしろ、当たり障りのないことを言っているのでそれも当然かと。

しかし、著書になるとそうはいきません。
シャイで内弁慶かと思われる荒俣は、自分の世界……著書になるとおのれの趣味性を全開にします。
高度で難解なことを「理解していますね」という前提のもとに論を進めていくため、いともあっさりと置いて行かれてしまうのです。
はまるとおもしろすぎなのですが、はまらないとなにがおもしろいのかわからなくなります。
そうなると、こちらはついていけない。

たとえば、日本におけるコロニアル建築(植民地建築)。
マリアナ、カロリン、マーシャル群島など南太平洋を植民地にした戦前の日本国内では、南太平洋をイメージした、日よけ付きのベランダで周囲を取り巻き、シュロやヤシを植えた洋館が流行しました(参考文献:『異都発掘』【新東京物語】荒俣宏)。
この南方趣味が、いかに東京市民の心を魅了したかを力説し、またその痕跡を訪れては恍惚(こうこつ)の境地にひたります。
しかし、コロニアル建築の知識に関してとぼしく、さしたる思い入れもないわたしは戸惑います。
だが、荒俣は人類の叡智(えいち)に欲情するかのごとく、とどまることなく南方趣味への熱き想いを書き綴っていくのです。




隠れた神
隠された大黒様

しかし、はまるとしびれるような快感が生まれます。
知識の快楽に溺れている荒俣と共鳴するのです。
マニアックであるからこそ、合致したときには共感も大きい。
『エヴァンゲリオン』のシンクロみたいなものです。

たとえば、ほぼ都電からしか見ることができない大黒像。
東京新橋にある道路沿いの古い商店ビル上方に鎮座する大黒様は、角度的に背の高い都電(現在は廃止)からしか見えません。
例外的に、バスなどがセンターライン近くを走っているときに偶然にやっと目につくことがあります。
それ以外は、そこに存在している大黒様は、多くの人たちにとって「ないもの」に等しい存在になります。
それも都電が廃止されることにより、ますます「ないもの」に等しい存在に。
荒俣は言います、
「あの大黒は「隠れた都市の神」にならざるを得なかったのだった」
と。
(参考・抜粋文献『異都発掘【新東京物語】』荒俣宏)

「隠された神」というものに、妙な神秘性と畏怖を感じるわたしは、ここでやられてしまうわけです。
「隠れた神」というのは日本の神話では重要な概念です。
端的に言って、神様の不幸……死を匂わせるときに良く使われる表現です。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の「天の岩戸(あまのいわと)」、大国主命(おおくにぬしのみこと)の「国譲り」など。
神話や宗教にも超天才的な知識を持っている荒俣は、それらのことを踏まえて「隠れた都市の神」のことを語っているのだろうと思われます。
著書にそのことは書かれていませんが、なにやらあやしい「隠れた都市の神」に荒俣は惹かれ、このいわくありげな新橋の大黒様のことを著述したのだと思います。




偉大なる暗黒の神・マハーカーラ

それと、荒俣宏の著書から離れて大黒様についてもう一つ。
商店ビルの上方にあるので、この大黒様は商売繁盛の神として祀られているのでしょう。
しかし、大黒様は様々な顔を持っています。
七福神の一柱として福福しいお顔をしておられる大黒様。
ですが、もともとはヒンドゥー教の神様です。
マハーカーラという神様です。
マハーとは「大」や「偉大」、カーラとは「時」や「黒(暗黒)」のこと。
偉大なる暗黒の神様がマハーカーラ。
破壊神シヴァの化身した姿です。
シヴァ神の夜の姿。
そして、世界を最後に破壊するときにシヴァ神が化身する恐ろしい黒い姿。
そう考えると、その大黒様がほとんどの人に気づかれることなくビルの上方に安置されているというのはなんとなく怖いことです。




叡智には荒俣を
白昼夢には美女を

かように荒俣は、著書において、おのれの欲望のおもむくままマニアックな著述にまい進します。
ついていくのは大変です。
しかし、はまると快楽は大きい。

だいたいにおいて、さほど興味のなかったコロニアル建築についてもいまは影響を受けています。
とある廃墟同然の洋館を目にしては、
『この洋館は、なにやら南方的な……これは荒俣宏が書いていた……』
などと、ぶつくさ心の中でつぶやいている自分がいるのです。
この強い影響力は、膨大な知識と知恵に裏打ちされた荒俣への信頼感がもたらすものでしょう。
その荒俣の叡智は、現代の魔術師に例えられましょうか。

ただし、願わくは、真夏の白昼夢には荒俣でなく、美女が脳裏にあらわれ出んことを。

カミーユ・ビダン&富野由悠季は、自閉症なのか?『機動戦士Zガンダム』



ぼくは……自閉症の子供なんだ

エマ・シーンに叱られたとき、カミーユみずからが「ぼくは見込みありません、自閉症の子供なんだ」と言い訳をしていました。
果たして、カミーユは本当に自閉症なのでしょうか?




カミーユ……屈折したキャラクター造形

わたしは、けっこうカミーユ好きです。
富野監督はカミーユのことかなり嫌いみたいですけどね。
すくなくとも、精神状態がすさんでいたテレビ版は。
聞き分けのよい少年になった劇場版のカミーユはどうなのかわかりませんが。

カミーユの心の屈折したキャラクター造形は、かなりリアルだったと思います。
『Z』本放送のとき、わたしは中学2年でしたがカミーユには共感を覚えました。
少年少女なんて、大なり小なり、心が鬱屈してすさんでいるのが当たりまえなのでは?
もちろん、そのすさみが大きすぎるのは困りものですが、それなりにであったなら人生の通過儀礼なのではないでしょうか。




居場所のない少年、カミーユ

カミーユは、身の置きどころ探しに苦労している印象でした。
世間や社会どころか、家庭にも「居場所」がありませんでした。
父は愛人のマルガリータに入れあげていて、母は仕事に夢中。
カミーユの母ヒルダの仕事への没頭は、もしかしたら、夫との冷めた関係から現実逃避していたのかもしれません。
カミーユの家庭は機能不全状態でした。

だから、ホモ・アビス(ハングライダーにブースターパックがついたような小型飛行機)の大会で2年連続優勝、ジュニアモビルスーツの大会で優勝、グリーンノアでも有数の空手の使い手になれたのかもしれません。
この頑張りも、カミーユの「居場所」づくりの一環かもしれません。
好成績を残せば部活の中心人物になり、ちやほやされるでしょう。
他人から承認されるかもしれません。
そのように、他人から認知され「居場所」を築こうとしていたのかもしれません。




カミーユは愛着障害かも

カミーユは「愛着障害」の可能性あり、とわたしは思っています。
子供のころに親などからじゅうぶんな愛情を得られず、そのため人間不信になり他人との積極的なかかわりを避けたり、逆に、寂しさから他人に依存したりしてしまうのが「愛着障害」です。

他人の評価に依存しようとする承認欲求の高さが、カミーユのホモ・アビスやジュニアモビルスーツの腕前上達の原動力だったかもしれません。
じっさい、愛着障害の方たちは、名声を得るために人一倍努力するからなのか各分野で成功する可能性がけっこう高いのです。

また、両親の愛情に恵まれず、そのため人間不信になり他人に心を閉ざしたカミーユに、愛着障害は良く合致しているようにも思われます。




先天的要因の自閉症と後天的要因の愛着障害

では、「自閉症」の可能性はどうでしょう?
自閉症は、他人とコミュニケーションを取るのがむずかしいなど愛着障害と似た症状を呈します。

ただし、自閉症と愛着障害には決定的な違いがあります。
愛着障害は、親の愛情不足や育て方など後天的な要因に起因しています。
自閉症は親の愛情や育て方とは無関係。
遺伝子の異常や、受胎時・出産時の事故などで脳機能に障害を負ってしまうことなどが原因とされています(異説あり)。
親がどうすることもできない遺伝子の異常など先天的要因が、自閉症の主な原因なのです。



カミーユと富野由悠季は自閉症?

「ぼくは見込みありません、自閉症の子供なんだ」と言っているように、カミーユは自分を自閉症だと思っていました。
一方、富野監督は他人からよく「自閉症的」と言われたそうです。
富野監督自身も、渋々ながら自分が自閉症的であることを認めていました。

カミーユと富野監督は、自分のことを自閉症だと思っている子供と大人なのです。




カミーユと富野由悠季は自閉スペクトラム症かもしれない

自閉症は、現在では「自閉スペクトラム症」が正式な診断名です。
「自閉スペクトラム症」には、「自閉症」「アスペルガー症候群」「特定不能の広汎性発達障害」「小児期崩壊性障害」が含まれます。
これらは、かつては別々の診断名でしたが、現在では明確な区別はむずかしいということで「自閉スペクトラム症」という一つの診断名に統合されました。

「自閉スペクトラム症」は、まわりの人間と関係を築くのがむずかしく、特定のことに尋常でなくこだわるなどの特徴があります。
カミーユも富野監督も、人間関係は不得手で、特定のことにこだわるなど、自閉スペクトラム症の可能性はあります。
ただし、人間関係が得意でない、こだわりが強い、その他の特徴に一致しているからといって、それで自閉スペクトラム症であると決定されるわけではありません。
医師の診断によって、自閉スペクトラム症だと思っていたのにそうでなかった、逆にそうではないと思いつつ試しに診断を受けたら自閉スペクトラム症だったという事例は数多くあります。

カミーユや富野監督が自閉スペクトラム症であると結論づけるには、医師の診断が必要でしょう。




自閉症だから見込みがないわけではない

カミーユが口にした、自閉症だから「ぼくは見込みありません」というのは、一概には言えません。
自閉スペクトラム症のために人間関係などで苦労されたり、他人が簡単にできることができなかったりと負の側面はあるものの、他人ができない離れ業をやってのける「天才脳」などを持っている自閉スペクトラム症の方たちもいらっしゃいます。

何年何月何日は何曜日であることを、卓抜した暗算力で一瞬のうちに計算してのけたり。
一度目にしたものを写真のように一瞬で脳に刻みつけるカメラアイの能力があったり。
そこまで顕著でなくとも、普通に記憶力や暗記力にすぐれていて高学歴だったり、仕事で活躍したり、芸術的才能に恵まれていたりする方たちもいらっしゃいます。

自閉スペクトラム症であるから「見込みありません」というわけでもないのです。




富野由悠季のカミーユ嫌いは同族嫌悪かも

富野監督も、自分の「居場所」確保に苦慮していた気配があります。
富野由悠季自伝『ターンエーの癒やし』で、親友が一人もおらず、奥さんをのぞいては孤独であったと述懐しています。
親友なしで孤独であるなら、家庭ではともかく、世間に「居場所」はなかったでしょうね。
この著書を書いた2000年ごろには、その孤独感もそれなりにやわらいだとのことですが。

富野監督はテレビ版のカミーユを嫌っていますが、二人はよく似ているように思えます。
もしかしたら、富野監督のカミーユ嫌いは同族嫌悪なのかもしれませんね。