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ティターンズ……見られた「見るが良い、この暴虐な行為を」『機動戦士Zガンダム』(&袁術『三国志』)



ティターンズの暴虐


ティターンズの滅亡は、自業自得の典型例の一つ。

戦局がさほどティターンズに不利ではない時点で、民間人をねらったコロニーへの毒ガス注入、コロニーレーザー砲撃、コロニー落としを繰り返したのです。
ティターンズに反抗するとどうなるかの見せしめ……威圧のためでしょうが、それにより起きる反感、敵意といったものに思い及ばなかったのでしょうか。

月のグラナダにコロニー落とし、失敗
サイド2・25バンチに毒ガス攻撃、失敗
サイド2・18バンチをコロニーレーザー試射、半壊
サイド2・21バンチに毒ガス攻撃、住民全員死亡

そこには粗暴なバスク・オムの意思が強くはたらいています。
それに賛同するバスク派ティターンズ幹部の意思も。
そのため反ティターンズ感情はたかまり、ダカールにおけるシャアの演説によりティターンズ離れが加速しました。
ティターンズが追いこまれるなか、総帥のジャミトフはシロッコにより暗殺、ついでティターンズNo2のバスク・オムも(TV版ではシロッコの部下のレコア、劇場版ではシロッコの盟友のヤザンの)裏切りにより暗殺、最終決戦では、奪われたコロニーレーザーにより主力艦隊壊滅、一応のトップにおさまっていたパプテマス・シロッコ戦死によりティターンズは崩壊しました。

UC.0085年の「30バンチ事件」の成功体験が、バスクをはじめティターンズ幹部の頭にはあったのでしょう。
このときは、サイド1・30バンチにおける反地球連邦政府の平和的なデモを、毒ガスG3を注入することで鎮圧しました。
コロニーの住民1500万人もろとも虐殺。
まったく必要のなかった毒ガス攻撃での任務成功が、もとから狂気をやどしていたバスクとティターンズ幹部の心のなかに、さらに凶暴な闇をはらませたのかもしれません。
(ちなみに、総帥ジャミトフは無意味な大量殺戮には消極的でした。
しかし、軍事における指揮権はバスク派に乗っ取られていた形跡があります。
劇場版では、地上のダカールから宇宙を見上げ、バスクたちの無差別殺戮に「歴史的評価」の観点から苦言をもらしていたのが印象的でした)

まことにそれは、シャアのダカール演説での「見るが良い、この暴虐な行為を」であり、「逆らうものはすべてを悪と称しているが、それこそ悪である」ティターンズの体質そのものでした。




袁術『三国志』……この袁術ともあろうものが、ここまで落ちぶれるとは


『三国志』にも、自業自得を地でいく最期をとげた人物がいます。
『三国志』の嫌われ者の一人、袁術(えんじゅつ)(?~199)です。

『三国志』は中国大陸が舞台。
ときは、後漢(25~220)の末期と三国時代(220~280)。
後漢が統治能力をうしなった黄巾の乱(184)から、『三国志』でもっとも有名な戦いである赤壁の戦い(208)、歴史上の中国人のなかで日本人にもっとも人気があるかもしれない諸葛(しょかつ)孔明の死(234)を経て中国が統一される(280)、およそ100年間が『三国志』の主要な時代。

後漢は腐敗し、それが頂点に達したとき後漢王朝に対する民衆の反乱「黄巾の乱」(184)が勃発しました。
ここから天下は麻のごとく乱れ、群雄が割拠、あるものは後漢王朝再興を夢見、あるものは新たなるみずからの王朝をひらく野望を抱きました。

『三国志』といえば、曹操・劉備・孫権に代表される魏・呉・蜀の三国のあらそいが有名ですが、もとは、前王朝の後漢にとってかわり新王朝をひらくのは袁紹(えんしょう)・袁術のどちらかと見なされていました。
二人は、腹違いの兄弟(『袁紹伝』)かいとこ同士(『袁術伝』)。
袁家は、漢王朝の劉家につぐくらいの家格の高い大名門でした。

しかし、二人はその利点を生かせませんでした。
とくに袁術のほうは、無能で信望薄く、あっけなくもその勢力は瓦解します。

袁術は横柄な人間でした。
大名門の子弟であることをいいことに、人を見下すことはなはだしい。
袁術は本妻の子、袁紹は妾腹の子でした(兄弟説によれば)。
しかし、快活で謙虚な妾腹の袁紹の声望のほうが圧倒的に高く、それを妬み、袁紹の出自の低さをことあるごとに持ちだして誹謗中傷を繰り返しました。



袁術は197年、皇帝に即位しましたが、あまりにも時期尚早でした。
いまだ、後漢の皇帝家は多くの信望をあつめていたのです。
というより、時期にかかわらず無謀なくわだてだったかもしれません。
傲慢な袁術はみなから好かれていません。
皇帝としての信任を取りつけることは難しい。
袁術はおのれの名声を勘違いしたのでしょうか、それとも、名門ゆえに好き勝手ばかりしてきたため忍耐のきかない性格だったのでしょうか。

「袁術皇帝」(国名は「仲(ちゅう)」)の在位期間は197~199。
風のように去っていった皇帝でした。
というより、ほぼ誰からも認知されなかった「皇帝」です。

袁術の治めた国は最悪に近い状態になりました。
長江と淮河(わいが)のあいだに建国された地方政権でした。
袁術は奢侈放蕩の生活のために重税を課し、ために宮中には米と肉がありあまっていましたが、領民や兵士は飢え困窮しました。
一説には、人民はたがいに食いあうありさまだったといいます。

袁術の自己中心的な性格は病的だったのかもしれません。



その報いがきます。
袁術の王国は、うちつづく負け戦・悪政・飢饉のために衰退しました。
帝位をゆずることを条件に、袁紹の庇護をもとめます。
袁術は袁紹のもとへ。
しかし、曹操がそれをさまたげ、袁術は袁紹と合流することができませんでした。

ついで、部下をたよって落ち延びましたが、部下は袁術を拒絶。
どこにも安らげる居場所のない「皇帝」。
そうこうするうちに食糧は尽き、麦くず30石しかないありさま。
夏の暑い盛り、蜂蜜入りの飲物を所望しても、蜂蜜もまたなし。
袁術は木の寝台に腰をおろし、ため息をつきました。
やがて大声で、
「この袁術ともあろうものが、ここまで落ちぶれるとは……」
と怒鳴り、寝台に突っ伏し、一斗あまりの吐血をして事切れてしまいました。

自分は贅沢のかぎりを尽くし、民は飢えさせた袁術は、最期は蜂蜜入り飲物すらおもうにまかせず、無念のうちに死んでいったのです。
「袁術ともあろうものが」ではなく、袁術だからこそここまで落ちぶれたのでしょう。

その最期はたしかに哀れを誘いますが、因果応報というしかないでしょう。


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