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タルコフスキー……ライ麦畑じゃなくても眠らせて!(『ストーカー』(1979))


アンドレイ・タルコフスキー

眠くなる映画があります。
つまらなくて眠たくなる映画もあれば、できはいいのですが眠りたくなる映画も。

たとえば、わたしにとってアンドレイ・タルコフスキー(1932-1986、ソ連→84 亡命)は後者。
「映像の詩人」と呼ばれ、その味わい深い叙情的な自然描写で知られるタルコフスキー。
深い精神性を探求、魂の救済を追求した哲学的にして難解なタルコフスキー映画。
代表作は、『ぼくの村は戦場だった』(1962)、『惑星ソラリス』(1972)、『鏡』(1975)、『ストーカー』(1979)、『ノスタルジア』(1983)、『サクリファイス』(1986)など。




眠りたい……胎内の胎児のごとく

タルコフスキーは、観る者を眠りへと誘う監督としても有名です。
というより、映画の専門家やよほどのマニアでないかぎり、「眠らせてくれる」監督としてタルコフスキーは著名なのではないでしょうか。

冗長ともいわれる、やたら長いスローテンポなシーンが多用され、たとえば、薄暗い部屋のなかの雨漏りしている壁がえんえんと映し出されたり、走るトロッコの証明に照らし出された漆黒の地下トンネルが際限なく描出されたり。

また、セリフはほとんどなく、あったとしてもぶつぶつぶつぶつ暗闇のなかでささやきあう。
ゆっくりとした、そして生気のない口調でぶつぶつと。
また、そのさいには会話をしている人間の顔ではなく、暗い陰鬱な部屋の壁などにカメラは固定されています。

そして、タルコフスキーは水が好き。
水の音も好き。
ぴちょぴちょ、しとしと、ちょろちょろ、ぴちょんぴちょん、さびしい水の音が聴覚を独占し、壁や窓を雨水などが憂うつにしたたっています。

なんといいましょうか、その暗く静かな世界は、わたしには子宮と産道に思えるのです。
胎児がこの世にあらわれ出るときまで安住していた子宮。
この世に生まれいずるときに通る産道。
タルコフスキーがこだわる水のイメージは羊水でしょうか?

そして視聴者や観客は、一人の胎児となって眠りに落ちていく。
安心で安全な子宮と産道に眠る胎児として。

(後記:雨音は胎児が耳にする胎内音に近いという説があるそうです。
    水の音がタルコフスキーの「睡魔」の原因の一つなのかもしれませんね)




こりゃ、よく眠れる、『ストーカー』

とくに『ストーカー』(1979)は、わたしのなかで『2001年宇宙の旅』(1968)とならぶ気持ちよく「堕とされた」映画の双璧です。

この『ストーカー』、SF映画ということになっていますが特殊効果もなく、異星人との戦闘があるわけでもない。
ただ、隕石が墜落した(らしいという噂のある)地域(「ゾーン」と命名)が政府によって立ち入り禁止にされ、侵入者は銃殺されるといいます。
この隕石落下地域「ゾーン」には、なんでも願いがかなうという「部屋」が存在すると噂され、願いをかなえてもらうために命がけで「ゾーン」への侵入を主人公たちはこころみます。

『ストーカー』は、なんでも願いがかなう力をもつ存在への接触をこころみる物語ですので、神(あるいは神のような高次元の存在)をテーマにした作品です。
『スターウォーズ』のような娯楽SFではなく、神(のような存在)とのコンタクトを描いた『2001年宇宙の旅』のような哲学的映画です。
魂の救済を描いています。

テーマがそのように神学的であるため、それだけでも難解なのですが、さらに長回しが多いタルコフスキー作品の中でもとくに長回しが多いとされていて、たとえば、とめどなく暗闇のなかで男たちがぼそぼそ話し合っているといったように眠気を誘う要素に事欠きません。

そのなかでも、わたしが「堕とされた」のは地下トンネルのシーンでした。
(おそらく。
眠ってしまったので正確なことはおぼろなのです)

1985、86年のころ。
学校生活に精神的にくたくたになっていた中学生のときのことです。
深夜の映画番組で放送された『ストーカー』をビデオテープにタイマー録画していたものを、学校から帰ってきて観ていたときのことでした。

発見されたら銃殺されるなか、秘密の地下トンネルを小型のトロッコで進み「ゾーン」侵入をくわだてる「作家」「科学者」「ストーカー(密猟者という意味、作中では「ゾーン」への案内人のこと)」の男3人。
それまでさんざん「ゾーン」潜入にたいし賛成だ反対だのひそひそ話を暗闇でたっぷりされたうえで、やっと「ゾーン」へ向かいます。
そしたら、今度は、トロッコの照明にだけ照らされた狭い地下トンネルをいつ終わるともなく前へ、前へ……。

主人公たちは身動きの取れない小さなトロッコに男3人、自由に動くこともできず胎児状態。
映像はトロッコの前方照明以外は、地下の闇、闇、闇……また闇……まるで産道のような闇。

産道を進む赤子のように……いや、「ゾーン」にはなんでも願いがかなう神のごとき高次元の存在がいるのですから、むしろ出産とは逆に産道を戻っている、「この世」にではなく「あの世」へと帰ろうとしているのかもしれません。
胎児が、さらに胎児に……「ゾーン」に近づくにつれて、さらにさらに胎児に。

そうして、わたしは眠りました。
胎児のように眠りました。

起きたときにはどうだったでしょうかね、だいぶ昔のことなので忘れてしまいましたが……生ビデオテープの録画されていないザラザラの映像が映っていたでしょうか、それともビデオテープの再生が終わったあとのテレビの黒一色の画面、あるいは「砂嵐」と呼ばれるアナログテレビ特有の白い点が多数ランダムにぽつぽつと映されている映像だったでしょうか。
(ちなみに、この「砂嵐」のときテレビから流れる「シャー」という音はホワイトノイズと呼ばれており、雨音と同様、胎児が胎内で聞いていた音に近いと言われています)。

ともかく、『ストーカー』は終わっていました。

寝ているあいだに一つの物語が終わっていました。
映画には現実逃避の側面がありますが、眠りも現実からの逃避の一面があります。
その現実から離れた眠りと映画が、同時並行的に進んでいました。

不思議な気分でした。
ふだんは理性が認識している自他の区別が眠りによりつかなくなり、『ストーカー』の登場人物たちとシンクロしたような気分だったかもしれません。
まるで、自分が主人公の一人になったような気持ちになっていたかもしれません。
自分も冒険したような心持ちだったかもしれません。
(といっても、3人の男は頭の禿げたいかつい顔のおじさんたちなのですが)

気分は爽快でした。
子宮で安らいできたかのように。




いまだにわからん、『ストーカー』の結末

これで終わりです。
テープを巻き戻して、眠りについたとおぼしきところから再び鑑賞開始とかはしませんでした。
なにか、よけいな気がして。
わたしは気分良く眠れた(現実逃避できた)ことに大いに満足しました。

それきりです、『ストーカー』は。
いまでも、あのあと物語がどうなったのか知りません。
本やネットで簡単に調べることはできるでしょうが、いっさい、それはしていません。

わたしにとっての『ストーカー』は、【大検高校カット版】です。
「ゾーン」に侵入している最中に不意に眠ってしまって、それで終わり。
気分良く目覚めて、そこで終わりがわたしの『ストーカー』。

それ以外の『ストーカー』にはあまり興味がありません。
良い思い出は、思い出のままに……。
なにしろ、タルコフスキーも原作であるストルガツキー兄弟の小説『路傍のピクニック』(邦訳『ストーカー』)をだいぶ自分好みに自己解釈したようですから、どうか、おあいこということで。



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